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                  獸木さんちのサロ様 
                
                 
                 
                  
                   名前/エティアス・サロニー(1988-1998) 
                   性別/オス 
                   ブリード/シャム猫が入ってるらしい日本猫 
                   毛色/黒 
                   保護者/獸木 
                   特技/ハンティング 
                  最初に断っておかなくてはならないが、わたしは面食いではない。 
                  なんでこんなことを断らなくてはならないかというと、サロニーのことを書くと、美しいという言葉を連発する可能性があるからだ。 
                  この言葉を、本人(本猫)に対して、日に何回言ったかわからない。 
                  そもそもあのジェームスがアンディに言った「お前にくらべれば宝石などただの石ころ」という名言(?)の出所がこの猫のサロニーだ。かのセリフは、わたしがサロニーに日ごと夜ごとささやいていたものなのだ。 
                  1988年の11月、雨の夜に外で猫の声がするので窓を開けた。 
                  窓の外は小さな駐車場だった。姿が見えないので、こっちも「にゃあ」と鳴き返してみると、生後6カ月くらいの黒い猫が飛び込んできた。 
                  家族の誰もその猫を外に追いだそうとしなかったので、彼はそのままうちの猫になった。 
                  彼はなぜか親戚が大好きだった。血のつながって入る人とそうでない人をどうやって見分けるのかわからないが、普段気難しいくせに、親戚が来ると家の中が騒がしくても人間の団らんに混じって、初対面の親戚に抱かれたりする。 
                  宮城に住んでいたわたしの母方の祖母は、基本的には動物好きだと思うが、猫の皮膚病を家族に移された経験かなにかから、猫を非常にいやがっていた。 
                  実はサロニーの数年前に、同じようにして転がり込みかけた四肢の先だけ白い、とてもなつっこい黒い猫がいたのだが、たまたま遊びにきていた祖母が、目にもとまらぬ早さで追いだしたくらいだった。 
                  そんなこんなで、初め電話で猫を飼ったと報告したとき、祖母はトラブルを抱え込んで、と言った調子で「あらら〜」と言ったものだ。 
                  ところがその後、祖母が遊びにきたとき、彼女はたまたま具合が悪くなって、2、3日うちで寝ていた。 
                  するとサロニーが、まるで看病するようにずっと付き添っていたので、彼女の猫観は完全にひっくり返ってしまった。 
                  祖母はサロニーとお話しをするほど仲よくなり、わたしが取材でロスに2週間くらい行ったときは、サロニーの面倒を見るためにわざわざ宮城から駆け付けてくれたほどだった。 
                  ロスみやげの、ガラス玉の入ったピカピカする首輪を着けたサロニーを見て、祖母はわたしの大好きだった魅力ある東北弁で彼に言った。 
                  「サロちゃん、いがったこと。まるで位があがったようでがす。(よかったねえ、まるで王子様みたいだよ)」 はっきり言って、祖母はサロニーにメロメロだったと思う。 
                  サロニーは猫だったが、猫ではなかった。 
                  もし彼が猫だとすると、わたしが飼った他の猫たちは猫ではない。 
                  彼の正体はいまだ不明である。彼の目をのぞくと、その向こうに宇宙が見えた。 
                  とはいえ、わたしはあまりに彼を愛していたから(それに彼があまりにも美しかったから)(!)、彼を過大評価していた可能性は多いにある。 
                  頭を冷やして彼をとりあえず猫として見ると、賢くてちょっと変わり者の猫と言ったところだったろうか。 
                  そもそも、黒猫というのは他の猫に比べて人間になじむ傾向があるらしい。 
                  当時のうちの獣医さんは10匹以上の猫を飼っていたが、夫婦げんかをすると、他の猫がばっと走って逃げる中で、黒猫だけが仲裁するように鳴きながらふたりにまとわりつくという話をしてくれた。 
                  サロニーもわたしがタスクに説教なんかしていると、わたしの膝に乗って顔を見つめ、ほっぺたをさわり、にゃあにゃあ鳴き続けるので、非常にやりにくかったものだ。 
                  出先から帰ると、犬のように遠くから走り寄って出迎える。 
                  テリトリー内のパン屋とか乾物屋に買い物に行くと、店の中までついてくる。 
                  仕事に使う練りゴムを投げてやると、取ってきて人の手元に置き、また投げるまで待っている。 
                  抱いて語りかけると、目を細めてじっと人の顔を見つめ、手(前脚)で顔をそっとさわる。 
                  音楽をかけて、抱き上げ、ダンスをするみたいにくるくる回ると、うっとりと首をのけぞらせて天井を見つめる。  
                  辛いものが大好きで、カラムーチョや火を吹きそうな激辛カレーをもりもりバリバリ食べる。 
                  たぐいまれな美猫のくせに、ホワッツ・マイケルみたいに時々舌を出してぼーっとしている。 
                  誰も見てなくても一部のスキもなく決めてる2枚目のくせして、流し台から脚を踏み外して転がり落ちる。 
                  こんなふうに書いているとサロニーの思い出は尽きないはずなのだが、1998年1月の彼の死後、彼を思い出すことはほとんどない。というか、なぜかほとんど思い出せないのだ。 
                  昔読んだヴォネガットの本に、子供が小さいうちに親をなくしたりすると、(心が傷つかないように)親のことを思い出せなくなる、というようなことが書いてあって、そんなものかと思っていたが、これがそうなのかも知れない。最もありありと思い出せるのは、サロニーの死の前の10日間だったのだが、その記憶も遠のいてきている。 
                  サロニーを腕に抱いているとき、わたしはよく思った。 
                  「わたしは今、すべてを持っている。」 
                  愛や幸福が、一匹の猫のように身近なものなのは、昔からよく言われていることだ。 
                  自分や他の人たちが、それをたやすくどこにでも見いだせるくらい賢く、運がいいようにいつも願っている。 
                  <1998年12月> 
                    
                  原稿の上でお休み中のサロ様。 
                  サロニーが原稿の上で寝ている写真は、犬のルビーが枝をくわえている写真と同じくらい多い。 
                  「星の歴史」ラストの対決シーンなど、緊迫したシーンの上ほどなぜかリラックスしてお休みだ。 
                  /Photo by Yasay Kemonogi  
                  
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