Age10〜19



親友のマリ(仮名/左)と。あの自画像がデザインされたのは10代のころ。プロになってからは「あの自画像は嘘じゃないですか。」とよく言われるけれども、このころは間違いなく似てたのだ(本当は今でも似てると思う)。

- Aug.1977


1973
●中学入学後、恩師のひとり、美術教師の古川ひろし先生に会う。
「星の歴史」で使われたエフトレエンコ(だっけ?先生は戦争中ロシアに派遣されていたと聞いたから、きっとロシアの詩人でしょう)の詩は、結婚後先生に贈っていただいたもの。


1974
Feb.11/「やしの木ものがたり」全レイアウト完成
Feb.14/「秘密指令(ペン+鉛筆描き)」制作開始。PALM主要キャラクター誕生
Mar.31/「秘密指令」完成
●1974年(中学2年14歳)ぐらいから、作品に関する記録が残っている。
やしの木ものがたり」はご存知のように(?知ってる)PALMキャラクターの原形が活躍していた漫画(のようなもの)で、まあ先に書いた「VTO」よりは少しはましな設定で、アフリカの話で、全5話編成だった。このころから、さすがにはじめから本描きするのは賢くないと考えたらしく、いわゆるコンテに当たる「レイアウト」(漫画の専門用語は一般化されていない時代だった)を全編やり、レイアウトで終わっている。
続く「秘密指令」は、PALM主要キャラクターがほぼ今と同じデザインに出来上がった話としておなじみだが、これはクミやマリと、もうひとり「セイちゃん(当時から非常にセンスのいい才能豊かな人で、(服の)デザイナーになりたいと言っていて、実際にデザイナーになった。)」という人を加えた仲間4人でそのころやっていた、あるタイトルを課題にして、1カ月くらいでそれぞれ漫画を作るという遊びで描かれたものだ(つまり別の人も「秘密指令」を描いていた)(描き上げたのはわたしだけだったけど)。
この時に、レイアウトを終えた「やしの木ものがたり」のキャラクターを、「2821コカコーラ」のように役柄を変えて総出演させ、結果的に出来たのがPALMのキャラクターだ。
ジェームスが「ジェームス」という名前で、黒い服を着て、ナイフを投げるのは、この「秘密指令」を描き始めるほんの1、2日前(だったよなあ)に西部劇の「荒野の7人」をテレビで観て、ジェームス・コバーンのナイフ投げとユル・ブリナーの黒づくめの服がかっこよかったからなのだ。ついでに言うと、ジェームスの、「やしの木ものがたり」での元々のキャラクターは、アルゴなんたらという長いアフリカ語の名前で、アフリカでターザンのようなことをして、ターザンと呼ばれているキャラクターだった。それらは今後PALMで本当にジェームスの身に起こることだ。
この時生まれたPALMキャラには、ジェームス、カーター、アンディ、ビアトリスの他にアーサー・ネガット、ビリー・トムソン、サウスワース研究所のスタイケン博士などがいる。

日付不祥/「JACS in パリからの手紙(鉛筆描き)」完成
●「秘密指令」のあと、中学時代にPALMキャラを使って何本か習作を描いているが、「パリからの手紙」はその中で唯一完結したもの。シリーズ名はまだなく、あとから他の独立した短編との識別のために「JACS in+タイトル」で呼ぶようになった。この作品だけは、クミが製作に参加してくれている(つまり彼女がジェームスとかカーターを一緒に描いてくれていた!)。当時彼女はわたしよりずっと絵がうまかったので、頼み込んで実現したものだ。


1975
Mar.21/「JACS in フォア・ヴォイズ・モンタージュ(鉛筆描き)」制作開始
●わけのわからないタイトルだが、これが現在のPALMの原形となった作品(といっても未完だが)。
「ヴォイズ」というのは、言わずと知れたあの「VOID」にSをつけたもの(でもなぜ複数形??)。
ジェームスがマフィアの息子でメキシコ人に育てられたとか、カーターが医者だとか、オムニバス編成であるとか、何話目かに「あるはずのない海」というタイトルの話が入るとかいうアウトラインは、このあたりで決まった。

●中学3年、みんながそろそろ進路を考えるころだったのだが、わたしはすっかり漫画家になるつもりでいた。シリーズ名もなかったPALMではあったが、とにかく自分の書こうとするものが、いつ終わるとも知れぬ大長編なのがわかっていたので、高校や大学に行って、余計な時間を費やすのはたいへん好ましくなかった。たしか夏休み前だったと思うが(定かでありません)、この考えを知った担任の先生が、わたしをたしなめにかかった。とにかく誰でも高校に行くようになっていたころで、中学生くらいの子がバカな思い込みをするのは、先生にしてみればよくあることだったろうから、親切で言ってくれたのだろう。「紙切れでメシは食えないよ。」と先生はおっしゃった。非常に生意気な中学生だったわたしは、「先生、人は食べるために生きるのではなく、生きるために食べるのです。」と返した。

Aug.13/投稿第1作「ボギー・ベン(WORKS/中短編/「シミュレイション」参照)」完成。
Sept.14/「ソシアル・ラダー(鉛筆描き・WORKS/中短編/「2821コカコーラ」参照)」制作開始
Dec.11/投稿第2作「トーリー」完成
●さて、ここからがたいへんだ。中学3年、15歳の夏にわたしは投稿を開始した。わたしの記憶が正しければ、夏休み前に、高校に行かないことについて、両親や先生を説得できないとわかったことで、行動を開始したものだ(両親はかなり話のわかる個人主義者だが、さすがに「何になるにしても高校くらいは行っておけば」という意見だった)。
投稿第1作は雑誌の「りぼん」に送り、結果は選外の「もう一歩賞」。アマチュアの時は誰でもそうだと思うが、わたしも自分は天才で、大歓迎で漫画の世界に受け入れられると思っていたので、これはたいへんな打撃だった。
これによって、「高校に行くべきでない」というわたしの思い込みはさらに強くなった。完結に大変な歳月を要する話を描くうえに、プロになるまでにも、長い年数を費やす可能性が出てきたのだ(実際それから7年以上かかった)。
暗黒の10代のはじまりである。
そんなこんなのプレッシャーで、わたしは1975年後半に調子をおかしくし、1、2カ月休学することになった。診断は「離人神経症」。例のカーターがなった病気で、ものの実態感が失われる。
それまでなんの問題もなく育ってきた娘が、高校に行かないと言い出したり、おかしくなったりで、母はほとほと参ったという。しかし、具合が悪くなったことで、両親はどれほど娘が思い込んでいるかを理解し、高校に行かないことを承知してくれた。


1976
Jan.17 /投稿第3作「わたしの猫」完成
Feb.16/投稿第4作「ワイルドリイ・ワイルドリイ(WORKS/中短編/「カインド・マシン」参照)」完成
Apr./千代田学園漫画科入学
Apr.23/投稿第5作「ミッドナイト・エンジェル(WORKS/中短編/「月の猫」参照)」完成
●記録を見ると、中3の夏発落選してから中学を出る当たりまでに、計5本の投稿作を描いて応募している(このうち4本の投稿先は「少女コミック)のがわかる。もちろんいずれも選外だ。このあと1981年まで投稿を、1978年秋までのちの「PALM」となる作品を含むすべての漫画作品の執筆を中断。これがアマチュア時代ながら生涯最大と思われる、3年から5年に渡る大スランプである。

●千代田学園の漫画コースは一年と短かったが、もうひとりの恩師小川哲男先生と巡り合い、基本や勉強のしかたを学ぶことができて、非常に有意義な1年だった。中学時代はわたしはたいへん不まじめな生徒だったのだが、ここでは自分に必要な事が学べるとあって大はりきり。授業時間だけでは足りず、自分でも独自のカリキュラムを作って、学校のあとも飛んで帰って勉強した。
このころ始めた勉強法で一番変わっているのは「一切の漫画を読まない」というのと、外国の話を描くために、日本食や、日本のドラマや、日本の音楽を一切断ってしまう、というものだ。これは20歳くらいまでかなり徹底して続けられた。
勉強に熱中するあまり、わたしはこのころ一番生意気なさかりだったのだが、幸い周囲はみな3歳以上年上の寛大なお兄さんお姉さんばかりだったので、よい友だちにも恵まれた(選んだわけではないのだが、なぜかわたしはのちにイラストレーターになった人ばかりと友だちで、漫画家タイプとは友だちにならなかった)。

Aug 1./初のアメリカ旅行から帰国。両親の離婚と転居を知る。
●夏休みに、千代田学園で行ったロスやサンフランシスコ、ハワイを巡る2週間の研修ツアーに参加させてもらい、このときわたしは始めてアメリカ(と外国)に行った。まだ成田空港はなくて、1ドルが300円台のころである。またあのロッキード事件は、わたしの旅行中に新聞ざたになった。
旅行はすばらしかったが、飛行場に迎えに来た母とおばの顔を見るなり、わたしは自分でも妙だなと思うことを言った。「どこへ帰るの?」と言ったのである。
母とおばは顔を見合わせた。わたしの旅行中に両親は離婚し、母とわたしの住居は長年住んだ大塚の家から、池袋のアパートに移っていたのだ。
実は両親の離婚は、数カ月も前に、家族会議のようなもので話し合って決められ、わたしも母側につく意志を明らかにしていた。だが、離婚はその後何カ月も実行されず、話は立消えたかに見えていた。
しかしわたしの旅行中、周囲に「子供に修羅場を見せず離婚するチャンス。」とアドバイスされた母はついに意を決し、非常にすばやくすべてをやってのけたのだ。
例え夫が困った人でも、取るところのない結婚生活だったとしても、とにかく生活環境がなにもかも変わるのだから、さぞかし勇気がいったことと思う。
父が離婚後またたくまに4回目の結婚をしたので、わたしたちは笑ったものだ。
とにもかくにも、10代は事件満載だった。

旅行はいつでも楽しい。だが帰ってきたときに、今までと同じ生活がそこにあるとは限らない。

Sept.13/「リリー・アパートメント」パート1完
●「リリー・アパートメント」は千代田の提出用に描いた4コマで(当時の千代田学園の漫画コースでは、1コマや4コマのみで、ストーリー物は教えていなかった)、PALMのキャラを言ってみればサンリオふうの、全く違った感じのポップなデザインにして描いている(プロになってから、愛読者プレゼント用スタンプに一度なっているデザイン)。
その頃(のちの)PALMの中で、アンディが新聞のコマ漫画を描くという設定があり、そのアンディの作品用にデザインしたものだ。なので作者名も共著として、自分といっしょにアンディの名を列していた。


1978
May.28/習作「籠の底の腐った果実」完成
●千代田学園卒業後、自分のカリキュラムで続けていた勉強の一環として描かれたのが「籠の底の腐った果実」。投稿を中断してから初めての本格的な作品で、ページも100ページくらいある。まだ投稿しないつもりだったので、原稿も真四角に近い規格外サイズ。途中突然カラーのシーンが入るなど、稚拙ながら相当凝った造りになっている。内容はオカルト物で、人物は例によってPALMや他の作品のキャラクターが演じている。

Aug.2/「ソシアル・ラダー」完成
Oct.31/「心寂しきカリフォルニアの夜(ボギー・ベン続編)」完成
●さて、まだ投稿は再開していないものの、このあたりから製作本数が正常化してきて、調子が出てくる。
「ソシアル・ラダー」は、75年からスランプの間も入れてずいぶん長く描いていたわけだが、これは鉛筆でスケッチブックに描かれたお遊び作品で、現在描いているものに飽きたとき、息抜きに描き続けていたもの。


1979
Feb.14 /習作「JACS in 神よ彼らを救いたまえ」完成
Mar.5/習作「JACS in スタンダード・デイタイム」制作開始
●78年末にのちのPALMシリーズの制作を再開。「JACS in 神よ彼らを救いたまえ」では、PALM探偵物路線の設定が、ほぼ確立されつつある。「JACS in スタンダード・デイタイム」は、おなじみの同タイトル作品の習作版。この作品はのちに新書館に持ち込まれ、デビューのきっかけとなるが、本格的な制作は結婚後になる。
この習作時代、わたしは母がビューティサロンの受付けとして働いていたビルのレストランで、ウエイトレス(これがまた横柄なウエイトレスだった)のバイトをしていたのだが、1979年、そこで後の夫と出会った(彼は学校に行っていない大学生でバイトのウエイター)。彼と恋愛をしたおかげで、わたしはスランプ中並に作品を書かなくなった。
出会ったのが春くらい、深い仲になったのが7月くらい、彼が母にわたしの結婚の許可を求めたのが秋、一緒に暮らし始めたのが翌年明けだから、かなりのスピード展開だ。
夫は今もどこかで生きてるはずで、一度は惚れた相手なので、悪口を書く気はいっこもないのだが、事実上かなりの「悪い男」で、わたしはそれを知っていた。彼と深い仲になる前、彼に最低2人の恋人がいる(ほんとはもっともっといた・・・)こともちゃんとわかっていた。しかし、なにしろ男性に恋することなど初めてで、これからもする可能性があるかどうかあやしかったから(わたしはジェームスに匹敵するほど恋愛回数の少ない人間です・・・だいたい10年周期で一度発情期を迎える程度)、大まじめで「遊んでいただける程度で結構です。」と考えていた。
それが何でだか結婚まで行ってしまったのは、ひとつには彼が母に結婚の許可を求めてしまったこと(わたしはその席にいなかったが、彼はどうやら酔っていたらしい)と、二人が勤めていたレストランがビルごとつぶれたこと(つまり母も失業)が大きかったのではないかと思う。もう自動的に会うことができないので、相手が真剣らしいと大きな勘違いをしたせいもあって、わたしは結婚に乗り気だった。
またレストランの閉鎖が決まった年末頃、別の問題も起きた。わたしが妊娠していることがわかったのである。

文/Feb.1998



結婚直前ごろの写真

- 1978~9?


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