明日に大事を控えて、くぐもった熱を底にはらんだ蒸し暑い夜の事。
賭をしないか。 赤毛の男が切り出した。 いいねえ。 派手な男は即座に答える。 かまいませんよ。 物静かな男も異は唱えない。 頭上の天は深い濃紺。孤高に輝く月は中空を回り、湿った静寂と心地よい倦怠を薔薇色の液とともに飲み下すのにも飽きてきた頃。 何、賭ける? 珍しい宝もいくばくかの金貨も、今の彼等は興味が無かった。命を賭けることさえ意味はない。ましてや一時の服従など酌と同等。退屈をしのぐに退屈なことをしても仕方ない。 せっかくやるんだ、譲れないものでないとな。 知られたくない秘密を明かす……というような? 一枚のコインに。数枚のカードに。あるいは銃の引き金に。気軽く、大それたものを委ねるところが賭の美学。 よし、のった。 いいよ、それでいこう。 二言は無しですよ。 引き替えにするものが大きければ得る緊張も得難い。男たちは互いに不敵に笑う。 しかしあんまり曖昧だな。 確かに、茫洋としすぎています。 もっと具体的じゃないと、物の役にも立ちゃしないね。 しばしの沈黙に、それぞれのグラスが同時乾いた。喉を駆け抜けるそれの勢いが、知らず彼等を高揚させる。次第に饒舌になっていく三つの影。 初めてのキスはいつかってのはどうだ。 別に知りたくないよ、そんなの。 秘密とするには、いささかささやかすぎますね。 じゃあ、初めての…… その先はもういい、言わなくて。 知ってどうなるというものでもない。 もう少しマシなことに頭と人生は使おうね、アンタも。 はっ、文句つけるだけって一番楽で卑怯な真似につかうよりマシさ。 ふん、偉そうに。赤い顔して睨んでも効き目ゼロだよ。 では、遡って最後に、泣いたその理由というのはいかがでしょう。 百年単位で振り返るのは面倒だぜ。 ……そんなに振り返らないと思い当たらない訳、それ。 そう言うあなたもそうそう思い当たると思えませんが。 言い出しっぺのお前が一番遠いところにいるんじゃないのか。 賭はなかなか始まらない。宵と酔いが彼等の身をひたひたと浸していく。極上のスリルを手に入れるために。こうなったら妥協なく。でも複雑なことはごめんだ。物事はシンプルなほうがいい。 ふと、ぬるんだ風が過ぎった。まるで誰かに呼び止められたように彼等は一斉に顔を上げる。一息の間をおいて、低く張りのあるバリトンが促されるように呟いた。 結局、俺達に過去は意味が無いのさ。 未来もね、遥かすぎる。 あるのはただただ、永遠にも近い現在。 後ろを振り返るのも先を夢見るのも、悪くはないが、らしくない。 こんなのはどう?……夜明けとともに生まれる新女王のために……。 乾杯か? 勢いグラスを合わせてしまう。すでに反射の領域だった。 ……乾杯して、どうするのですか。 さして面白くは無いな。 ちょっと待ってよ、ワタシが言ったんじゃないよ。 早く先を言わないからだ。 これでは……空き瓶ばかりが並んでしまいます。 非難の声を小さな溜息が遮る。しかし続いてこれぞ名案とばかりに。自信ありげに艶やかな紅で彩られた唇の端は上がる。 だからね、その新女王のために、改めて忠誠を誓ってみるんだ。どう? 濃淡を違える青い瞳が両の方向から好奇心に輝き、その唇を見た。 なるほどな。秘めたる、しかし誰にも負けず劣らない心の証か。大袈裟なところも気に入った。 知られるには困るほど、ありのままの真実と想いを込めて、ということですね。 そう。体裁気にして嘘やごまかし、そんなのはナシだよ。 当たり前だ。……そんな言葉に言いなりになるような、俺達じゃない。 譲れない誇りを示すべき場所。それを違えているほど醜いものはありませんしね。 無私のさだめの我が身にあるは、無限の宇宙への忠誠と数多の星々にも似た光るプライド。 決まったようだね。 ええ、異存はありません。今夜の宴の意義にもふさわしい。 そうだな、俺達があの名を口にできる、最後の夜だ。 じゃ、とりあえず。 再びグラスが朱に満たされる。薄氷よりも薄く冷たいガラスの唇にそれぞれが甘く口づけする。幾度となく繰り返される、儀式。 さて、大事なことを忘れています。 賭けるものは決まった、何に賭けるか、だねえ。 この状況じゃ、自ずと決まってくるさ。 目の前にあるものはたったひとつ。 ねえ、これ、ここのとこ。外してくれないかな。 俺はこういう細かいことは苦手だ。アイツに頼んでくれ。ああ見えて意外に力がある。 私ですか……。 渡されたのは耳飾り。 よろしいのですか。 かまわないさ、そのくらい。この石、爪が少し緩んでるし。 遠くなく外れて失くなるよりは、この賭けの主役になるほうが幸福だな、確かに。 美しい女のように細い白い顎が頷く。同じ色の指先が、並んだ中からその幸福な石を選ぶ。慣れ親しんだ弦をはじくに似た仕草の後、音もなく転がり落ちる鈍い輝き。 これを落としたグラスに当たったら、負け。 長い爪がつまんだ石を自らのグラスに落とす。小さく高い音がした。それは序曲の最初の一音。続いて容赦なく注がれた液体に、その輝きは身を顰めた。 さあ、目を閉じて、思い浮かべよう。これから賭ける唯一無比の己の誠実。 再びの風が彼等を撫でる。鼻腔を満たす、甘い花の香り。瞼の裏の過日の笑顔。あの緑の瞳は、この夜をどのように過ごしているだろう。我等と同じく閉じているか?閉じていたとして、夜明けの向こうの新たな運命に、不安な夢を見ていやしないか?あまりに大きなものを背負うその細い肩を孤独に震わせてはいないか?今日を限りと今いる場所を後にして、遥か彼方に飛翔するか弱き小鳥。 もう、いいだろう。 ええ、心は決まりました。 じゃ、はじめよう。後ろ向いて。 二人の背後で一人の手によって、巧みに場所を取り交わす三つのグラス。 もういいよ。好きなの、取って。 迷うことなど何もない。決断は一瞬。残されたひとつが高く天に掲げられる。それを合図に誰が言い出すでもなく立ち上がる三人。 明日から始まる、新たな御代に。 昨日までと変わらぬ、この宇宙の平和と繁栄を。 我等が天使の最後の夜に。
乾杯!!!!!
あっ…………。
だーーーーーーーーーははっっははっははははははははは!!!!!!!!!!!
夜のしじまに響きわたる、さも楽しげでけたたましい笑い声。止められぬ笑いに腹を抱え、顔を歪め、息を荒げ。互いに涙さえ浮かべながら、強く叩かれあう背中、肩、腕。
しばらく続いた笑い声も、ひとしきり静まる。皆が一様に黙って白んで来た東の空に視線を置いた。新しい朝。新しい日々。始まりはそこまで来ている。
長き間に繰り返し訪れるだろう闇夜、そんな中でも前を行かねばならぬその不安な足どりを照らす、燭台の小さな灯火に。
……とか、思ってたことがコイツらに知れたら!!!!!!!!!!
そろそろ酒宴も終わりにするか。
少々気取った口振りで、三人三様席を離れる。どうせまた同じ場所に集うのだ。この楽園の新たな主にこの秘めたる忠誠を誓うために。
そうしてその場所で彼等は思い知ることになる、新女王の即位を祝う擦り打ちの太鼓というものが、極めて頭蓋の内側に共鳴するということを。立っていることさえようやっとという中、金の髪の女王の微笑はあまりに天真爛漫だったということを。
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Subjective Late Show「絵」| |