僕等は風の吹く方角へ行く         
03


 素っ頓狂な声の主は、嬉しそうに微笑んでいる。俺に知り合いはない、当然デフォーのほうだろう。
「あ、あなたは…!こんなところでお会いするとは!」
「やっぱそうだよねえ?いつもお店に来てくれてありがと、でも最近はお見限り…と思ったらこういうこと。…恋人?」
「俺?!」
 思わず手にしたグラスを落としそうになった。にやつく笑みは確実にこちらに向けられている。勢い立ち上がって俺は言った。
「冗談じゃっ…」
「まあまあ、本当に冗談でしょうから」
「そうよ〜、坊やどこの田舎から出てきたの?冗談もわかんないんじゃこのパリじゃやってけないわよ〜」
「坊やでも田舎から出てきたんでもパリでやってくつもりも、ない!」
 俺はそれだけ言い放って、椅子に再び腰を下ろした。
 俺は大人だ。知り合いの顔を立てることも、店の秩序を守ることにも配慮くらいできる。黙ってくれるだけありがたく思え、ととりあえず心で悪態をつくにとどめた。
 一体誰なんだ、この失礼きわまりない男…男…大体ホントに男なのか??
 いや、ドレスを着ているわけじゃない、女でないことは明らかだが、化粧をし、じゃらじゃらと宝石で飾り立ている。指にはでかい指輪がいくつもはまっていて、ネコのように長く伸びた爪には色がついていた。
 憮然として黙り込む俺を後目に、2人は会話を弾ませた。
「随分印象が違うので、一瞬わかりませんでしたよ」
「そーお?ま、夜に出かける時にはね、ちょっとばかり洒落こむのは当然」
 店がどうの、と言っていた。デフォーは流行の退廃主義の秘密クラブにでも通っていたんだろうか?到底そんな趣味のある男には見えなかったが、このデフォーというのも実際得体の知れない男だ。完全否定は難しい。
「…いったい…どういう知り合いなんだ?」
 デフォーはにっこり笑って言った。
「ほら、あなたとも行ったロワイヤル通りの。アイスクリーム・パーラーの店員さんですよ!」
「よろしく〜〜〜〜〜☆」

    

 その男はオリヴィエ・エマニュエルと名乗った。
「へえ、アンタはイギリスから。確かにちょっとアーサー王に出てくる騎士みたいな感じね」
 エマニュエルはすっかり馴れ馴れしく同席を決め込んでいた。
「それはそれは、遠路はるばるようこそ!このパリでわかんないことがあったら何でも聞いてよね」
「…はん、別にパリはあんたのもんじゃないだろうが」
「そうね、残念ながら。ワタシのもんだったら気短で頭の固い英国人なんか港で強制送還してやれるんだけど!」
「そして英仏戦争勃発か?明日の新聞の見出しは全部あんたの名前になるな」
「英国と違って、そう派手派手しくはいかないでしょうね」
 デフォーが口を挟む。
「確かパリの日刊新聞は老舗の一紙があるだけですから」
「あら、最近はもう一紙あるのよ。でもどっちにしろ、あんなのに載っても嬉しくもなんともありゃしない」
 エマニュエルは俺に向かって口の端を上げ軽く笑った。
「無害な人間に成り下がるのなんかまっぴら、でもどうせならもっと別のことで歴史に名を刻むわ。…今ならそんなワタシとタダで握手できるけど、どうする?」
 テーブルの中央に赤い爪の右手が差し出された。
「大したビッグ・マウスだ!…そういうタイプは嫌いじゃないぜ」
 俺は思わず笑って、差し出された手を握り返した。
「それにアンタには十分素質も備わってる。あながち大口だけで終わらないかもしれんしな」
「素質?」
「性格が悪い」
「あーはっは!じゃあアンタもってことだ」
「ついでに言えばこっちの男もな」
「私?がですか?」
 それまで静観を決め込んでいた銀髪の男が心外だと言わんばかりに声を上げた。俺は言ってやった。
「そうやって、自分だけは違うとか思ってる奴に善人はいないぜ」
「それでは…同じと言っても違うと言っても仲間入りは免れない」
 デフォーはにっこり微笑んだ。
「ふふ、否定はしないでおきましょう。酒は楽しく飲んだほうがいい」
「その通り!じゃあ新しい出会いに乾杯といく?…って、随分つまんないの飲んでるのねぇ」
 エマニュエルは呆れ顔でそう言って、店員にむかって指を鳴らした。何重にもつけられた細い腕輪がしゃらしゃらと音を立てた。
「祝い事にはシャンパンって決まってるんだから!」

 

 それからの俺達は相当いい気分で、夜を更けゆくにまかせ何度も杯を交わした。
 その後のことはあまり覚えていない。シャンパンは美味かった、やたら盛り上がったような気もする。目が覚めたら朝…いや昼近くで、自分のホテルのベッドの中だった。記憶を失うまで飲むことなど、初めてのことだった。俺はけだるさの残った身体を起こして、身支度をし、目的もなく部屋を出た。

 イブを今夜に控えて、通りはにぎやかだ。街全体がきらびやかに光り輝いて、そこかしこに音楽が軽やかに流れる。
 これみよがしにまるまると太ったチキンを並べる肉屋、甘い香りを漂わせる菓子屋。洋服屋はここ一番の一張羅を、競ってウィンドウの最前列に置いている。通りでは飾られた店先を眺める者、きっと家族へのプレゼントだろう大きな荷物を抱えている者もいる。街は真っ昼間にも関わらずしんしんと冷え込んでいるが、行き交う人の顔は明るい。
 家族とともに聖夜を祝ったことなどないし、特に信心深いわけでもない。クリスマスだからといって俺は何も思わない。だが、それでもこうして世界が幸福に満ちあふれているのを見るのは悪くなかった。

 風景がだんだんと焦点を曖昧にしていく。目に映る人々も、馬車も、おそろしくゆっくりとしたスピードに変わっていく。ふうっと息を吹きかけたらまたたく間に消えてしまう夢の国みたいだ。頼りなくふわふわとした石畳を、自分の靴底の分だけ無理矢理押さえつけるように、俺は通りを歩いた。
 何、いつものことだ。
 時折、世界はこんなふうに俺から遠くなった。いや、俺のほうが世界から遠ざかっていっているのかもしれない。どちらでも同じだ、どうでもいい。別にここが旅先でなくても、クリスマスでなくとも、俺はいつだって“ストレンジャー”だった。
   たとえるなら、足跡ひとつついていない、まっさらの雪野原を見つけたときのような気分、とでも言えばいいか。誰もこの風景を知らない、そして風景のほうも俺がここにいることを知らない。ただただ、世界と自分が、向かい合っている。
 そういった自分について、もう何を思うでもなかった。他と違うと考えることさえとっくの昔に飽きてしまっている。世界はひどく美しく、その中に俺はいつもいない、それだけのことだった。

 俺は立ち止まり、空を見上げた。冷たい風が軽く顔を撫でるたびに、心がクリアになる。
 道の両端の枯れ木立が、ずっと連なった先で一点に消えていて、道も町も、そこできっぱり終わっているように見えた。そういうものを見ると「先」が見たくなるのが常だった。その先にもやっぱり石畳や並木は同じように続いていることもわかっているのだが、それでも、だ。
 空はどこまでも高く、淡いグレイ一色をしている。太陽は見えない。何もない空だ。時々鳥が視界を横切るたびに、奴等はあんなに何もない空に向かって、何を目印に飛ぶのかと不思議に思った。この道と一緒であの空も、行っても行っても、退屈なほど同じなんだろうに。

「…カー…… オ・ス・カー!!」
 はっとして振り返る。オリヴィエ・エマニュエルが立っていた。
「何度も呼んでるのに…ちゃんと生きてんの?」
 チンと高く微かな金属音をたてて、耳の横を銀の弾丸がすれすれに飛んだかのように思われた。動悸が早い。
 その時の俺はさぞかし間抜け面をさらしていたんだろう、ヤツは俺をみてプッと吹き出した。
「ホントに大丈夫?」
「……いや、まあ…ちょっとぼんやりしてて」
「あはは、酔い残ってるのか…昨夜は楽しかったもんねぇ、ちゃんと帰れた?」
「あ、ああ。一応目覚めたのはベッドの中だったよ」
 俺達は近くの公園まで行き、公園内の店でホットチョコレートを買って、ベンチに座った。手の中のカップの熱が、穏やかに落ち着きを取り戻すのに加勢してくれた。
「声かけちゃって悪かった?」
「…いや別に。どうせ何も用は無いし」
「ならいいけど。…結構声かけにくい雰囲気だったからさ。なーんかシアワセそうな感じでね」
「幸せそう?俺が?」
「うん。そう見えた」
 エマニュエルは思わせぶりに笑いながら、足下に集まる鳥をブーツの先でからかったりしている。
「こんなところでぶらぶらしてていいのか?…その、仕事は」
 俺のどうでもいい質問に、隣に座った男は言った。
「ロンドンじゃノエルにアイスクリーム食べる?」
「…さあ…あんまり聞かないな。少なくとも俺は食ったことない」
「パリだって同じ。この寒いのにそんなもの毎日食べようなんて、変わりモンの旅の男くらいだ」
「…まったくな」
 俺は笑った。
「あの店は冬はもっぱらカフェが主。そっちはワタシの仕事じゃないから、冬はわりとテキトーにやってんの」
「そうか。…今日は爪赤くないんだな」
 爪は今日は短く、普通と同じ…人間の色をしていた。
「爪?ああ、あれは取り外しがきくのよ。見たこと無い?」
 俺は素直に頷いた。エマニュエルは自慢げに言った。
「だろうねえ、アレ特注なの。このパリでもワタシだけよ。ってことは世界でワタシだけ!でもそのうち大流行するわ…そうね、あとどれくらいかな」
 取り外しのきく爪、なんて奇妙なものが流行るとは俺には到底思えなかった。
「30年…、いや50年くらいかかるんじゃないか?」
「やっぱ?…ワタシっていつも早すぎるのよねぇ…」
 相変わらず大きな口を利くやつだ。
「で、みんなが真似しだす頃には自分は飽きてたりすんだけど。…でさ、オスカー」
「ところで…なんでそう呼ぶんだ?その、名前のほうで」
 エマニュエルは不思議そうな顔をした。
「…アンタがそう呼べって言ったんじゃない、昨日」
「そうなのか?」
「そうよ!ワタシがアンタのことアーサー王の騎士みたいって言って。覚えてないの?」
 それは覚えている。一番最初だ。
「で、名前呼ばれるのヤダっつーから、ふざけて“アーサー王”って呼んでたら、今度はヤなこと思い出すからやめろって。それだったら自分の名前のほうがまだしもだって」
「…へえ…」
 まったく覚えが無かった。
「だって“ヘイワーズ”って呼びにくいんだもん」
「“エマニュエル”だって相当呼びにくいぞ。女みたいだし」
「じゃあ名前で呼べばいいじゃない。」
「俺は呼ばれるのが嫌いなだけで呼ぶのは別に…ただ、どっちかってのもバランスが悪いだろう?」
 目の前の男は呆れて、吐き捨てるように言った。
「じゃあ、ワタシのことも名前でいい。てーか、普通名前で呼び合うもんでしょ、知り合いならさ。なんでイヤがるの」
「飽きた。いいかげん捨てて新しいのにしてもいいんだが、不思議と名前ってやつは捨てられないもんだな」
 いや、不思議でもなんでもない。俺がいつまでもこの名を捨てずにいる理由はわかっている。
 俺が持っているものが、これひとつしかないからだ。
 特に荷物になるでもない。ありふれた名前、どうせ誰も何とも思わないんだったら、わざわざ捨てずとも持っていても同じだ。
「…まあ、いいさ。呼びたいように呼べよ」
「……ヘンなこと言うヤツ」
 人というのは、自分のことは真っ先に棚上げにするものだ。


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