Perspective
STAY GOLD#00

 SCENE/1
 張り出し窓が開かれる。窓辺におかれたいくつかの小さな鉢に水をやるリュミエール。気持ちよく晴れた青い空をわたって、風が彼の長い髪を軽やかに煽る。まるでその風に声でもかけられたかのように彼が顔を上げ、空を仰ぐ。光が彼の顔を直射し、彼はいかにも眩しそうに額に手をかざす。しばし目を閉じ、穏やかな光に自然に身を委ねる。またゆっくりと瞼を開けたとたん、彼の間近、眼前を鳥が通り過ぎる。
 この部屋はある程度の高さの階にあるようだ。彼のいる場所からは落ち着いた歴史を刻む石造りの屋根の連なりが随分遠くまで見渡せる。
 彼が視線を下方に移すと、そこは石畳の路地。その道を子供達が数人、走っていくのが見える。静かな、そしていつも通りの朝の街。彼は深く味わうようにそれを眺めてから、窓を離れる。
 あまり多くのものが置かれていないすっきりと整然とした印象の部屋。その存在を大きく主張しているのは、あちこちに置かれた大振りの鉢である。それらはそれぞれに自由に枝葉を広げ、彼の生活動線を複雑にしている。彼は慣れた足取りで、そんな居間を清流を行く魚のようにすり抜け、キッチンに水差しを置いた。
 それから、いつもしているように食器棚から愛用のカップを取り出そうとして、彼は手を止めた。身を軽く反らし壁際に置かれた時計を見る。8時を少し回ったところである。少し考えるふうなそぶりのあと、食器棚の扉を締めて、また窓へと向かう。手早く窓を閉じ鍵をしっかりとかけカーテンを引く。そのカーテンは薄地で遮光性に乏しいようだ、部屋の印象にあまり変わりはない。
 壁にかけられた上着を手に取って、リュミエールはそのままドアへと歩んで行く。外出する主を見送るように小さく音をたててドアは閉じられ、部屋には誰もいなくなる。


 SCENE/2
  大きなドアを肩で押し開けるように、オリヴィエが部屋へ入ってくる。片手に余るほどの大きな紙袋。袋の上から、みずみずしいフルーツや野菜がのぞいている。彼は足早にダイニングテーブルに歩み寄り、その紙袋と鍵の束を置く。
 彼はそのまま部屋の奥へと進み、ベッド脇に置かれたラジオのスイッチを入れる。とたんに何かの曲が流れ出したのだろう、すぐに彼の身体は反応し、揺れた。しかしすぐに身体を動かすのをやめ、チューニングのダイヤルに手をかけた。しばしの後手は止まり、微笑む。どうやら今の気分にぴったりの局を見つけたようだ。
 メロディに合わせてゆったりとハミングしながらベッド脇を離れ、再びダイニングテーブルの前へ。一人で使うにはいささか大きすぎるダイニングテーブルだ。おそらく食事だけでなく、あらゆることの作業台を兼ねているのだろう。上にはさきほど置いた紙袋だけでなく、日常のいろいろなものが脈絡なく、しかしある種の秩序をもって置かれている。
 彼はおもむろに冷蔵庫を開ける。中にはミネラルウォーターのボトルがいくつかと、チーズ程度しか入っていない。彼は手際よく紙袋の中身を移していった。あっというまに色に満ちあふれ豊かになった冷蔵庫。その姿を満足そうに見つめてからその扉をそっと閉めて、彼はまた部屋の奥へと行く。その先はバスルームのようだがリヴィングと隔てる扉は見あたらない。
 この部屋はひどく天井が高く、広いフロアをいちいち区切る壁もない。フロアには統一性の無いいくつかの絵…それは大小さまざまで床に置いたままであったり、壁にきちんとかけられていたりする…や、竹でできたオリエンタル風のカウチ、異国の楽器。さまざまなものが、テーブルの上と同様、雑然と置かれてある。この部屋はまるで、一風変わった骨董屋のような印象だ。
 古びているが清潔に保たれた洗面台で手を軽くゆすぎ、目の前の鏡に視線をやる。髪を軽く指で直し、そこでの用事は終わったらしい。すぐに彼はその場所を離れた。クローゼットに向かう。ワードローブから一枚のシャツを選び取り、ベッドの上にハンガーごと投げ出し、急ぐでもなく着替えを始める。ボタンをかけ終えると、彼の指は側にあった細工の施された箱を開いた。ラフなデザインのアクセサリーの類が詰まっている。彼はしばし考え込み、それからしていた腕時計を無造作に外し、その箱へ入れた。
 身支度は完了したらしい。テーブルの上の鍵束を再び取って、玄関脇の鏡を軽く見てから、外出。


 SCENE/3
 バスルームのドアが乱暴に開き、口に歯ブラシをくわえたままのオスカーが走り出る。彼が慌てて向かう先はベッド脇に置いた目覚まし時計。アラームボタンを半ばたたきつけるように押し、直後彼はほっとしたような表情を見せた。
 ベッド脇の、この部屋で一番大きな窓はしっかりと閉じられている。外音はまったく聞こえない。が、窓越しの風景が彼に馴染んだ喧噪を喚起させるのか、彼はベッドと窓の狭間に立ち、何か聞き入るように耳を傾けている。彼はベッドサイドにある煙草をとってから、口が既にふさがっていることにあらためて気付いたようだった。大股に部屋を横切りバスルームに戻り、水音のあと、再び居間に現れた時には口には歯ブラシはない。
 クリーニングから戻って袋に入ったままのシャツを袋から乱暴に取り出し、シャツを広げ、椅子の背に放り出す。彼は再び窓辺に寄り、約束を果たすように煙草をくわえ、火を付けた。満足げに部屋に煙が一筋上がる。
 煙草を一本吸い終えて、彼は椅子の背のシャツを手にする。袖を通しながらも、壁際まで歩き、そこにある留守番電話のセットボタンを押す。顔を上げると、目の前には大きな円形のボード…ダーツの的である。どうやらそれはゲームを楽しむためでなく、別用途に使用されているようで、覚え書きのメモやカードの類が、ダーツの矢をピン替わりに留めつけられている。
 メモの間にひっそりと、使い込まれた革のホルダーのついた鍵がかかっている。彼はそれに目を留め、矢ごと引き抜いた。玄関のドアへ向かい、ドア脇にかけてあったジャケットを手に取ってから、おもむろに振り向く彼。留守を誰かに頼むように軽く手を挙げ振り下ろす。その後、彼はドアの向こうに姿を消した。
 誰もいなくなった部屋、たった今彼の手から放たれたダーツの矢だけがボードで小刻みに震えている。それは小さなカードに二本目のピンとして刺さっていた。
 カードには“カフェ サン・テグジュペリ”という店のロゴが印刷されていて、その美しい飾り文字に被るようにマジックペンで殴り書きされた“9”の数字が見える。


 SCENE/4
 カフェの客越し、少し離れた道ばたの雑貨を売る店。新聞を適当に一部選んで買うリュミエールの姿が見える。紳士に呼び止められ、何かを聞かれている。彼は微笑んで、遠くを指さした。指先には時計塔、その文字盤…8時20分。紳士は帽子をとって丁寧にリュミエールに礼を言い、去った。リュミエールはカフェの席に腰をおろす。少しも足取りに迷いがないところを見ると、どうやらその席は彼の気に入りの場所のようだ。すでに馴染んだ椅子の座り心地に対してなのか、彼はそっと微笑む。


 SCENE/5
 市場の前を通り過ぎるオリヴィエ。あちこちの屋台から飛ぶ彼への気軽な挨拶にいちいち応えながら彼は色と活気に溢れた豊かな風景にとけ込んで歩く。
 ふと小さな女の子が彼にぶつかって転んだ。散らばる造花。慌てて助けおこしてから、花をその少女と一緒になって拾い集める。その花々が入っていたカゴに貼られた紙に募金活動の旨が書いてある。オリヴィエはポケットをさぐり、コインを彼女の首から下がった小さな募金箱にそれを入れた。代わりに、きっとその女の子が学校かなにかで作ったのであろう、いかにもたどたどしい出来映えの造花を一輪受け取って、彼は彼女に手を振ってから軽やかにメトロの階段を下りて行く。


 SCENE/6
 すぐさまやってきたギャルソンに、オーダーを伝えるリュミエール。先ほど買った新聞の、トップニュースには目もくれず地方版のページをまず開く。『現代の奇跡』と見出しのついた記事。この街のはずれの遺跡にある石塔に願い事をしたところ、長年の腰痛から解放されたという老人の談話…いかにもローカルな話題だ…を伝える記事を読んでいる。読み終わって顔を上げたところで目の前に焼きたてのクロワッサンとカフェオレが置かれた。
 新聞をまたたたみ、テーブル脇に置く。ふと、隣の席の女の子のグループが何やら興味深げにこちらをちらちらと見ては小声で話し合っているのに彼は気付いた。皆、このカフェの近くにある私立高校の制服を着ている。リュミエールはこのカフェにはよく立ち寄る、今までにも席を並べたことがあったのかもしれない。何やらリュミエールを知っているような様子である。目が合い、条件反射的に彼が微笑むと、彼女らは赤面し一斉に軽い嬌声にわきたった。リュミエールは再びたたんだ新聞を開き、クロワッサンをカフェオレにつけ口に運びながら、熱心に読むふりをした。
 そんな女の子達の席越しに見えるメトロの階段から、ひとりの男が上がってくる。髪を染め分けた、派手な風貌の男。さきほどと同じ少女達の嬌声が、今度は彼に向けて小さく上がる。その声は新聞越しのリュミエールにも届き、彼は顔を上げた。近づいてくる男の顔を見るなり、リュミエールには笑みが浮かぶ。彼は即座に軽く手を上げた。相手も気付いて手を挙げる。その手には一輪の赤い花。
 オリヴィエはリュミエールのいたテーブルに置いてある一輪挿しに造花を差し入れ、腰をおろす。オリヴィエの座った席の背後が小さくどよめく。

「待たせた?」
「いえ、朝食もここでとろうと早めに来たのです。私の部屋は近いので」
「そうだったね。…で、もうひとりは」
「彼が遅れるのはいつものこと。気長に待ちましょう」


 SCENE/7
 イライラしたように道の端で腕時計を見るオスカー。タイミングよく近づいたタクシーを止める。素早く乗り込もうとしたところ、横に大きな荷物を持った老婦人がいることに気付く。彼は開けたドアに彼女を促し、ドアを閉じる。走り去るタクシー。オスカーは行き交う車の波を縫うように道を渡る。反対側にいた、今まさに走り出そうとしていたバスのタラップに飛び乗る。


 SCENE/8
 ギャルソンがオリヴィエの横に立つ。オリヴィエは一瞬考えて振り返る。少女達のうちのひとりの前にある、グラスを指さし、彼女に声をかける。

「それ何?」 
「……あ…えっ…と、あの、ジュー・ド・オランジェ……」
「ありがとう。…このマドモワゼルと同じものをお願い」

 礼は紅潮した頬の女の子へ、オーダーはギャルソンへ。オリヴィエは一言言ってリュミエールに向き直る。そして彼の手の新聞を軽くのぞきこんで笑った。

「腰痛ね。“現代の奇跡”にしては随分ささやかだこと」
「その老人にとっては大事件。遠い国の選挙結果よりもね」
「そりゃそうだ。…今日、未だ新聞読んでないんだ、見てもいい」

 頷くリュミエールからオリヴィエは新聞を受け取る。そのページとは違う読みたい箇所があるのか、がさがさと新聞をめくり、手を留める。真剣な面もち。
 オリヴィエの背後、少女達の会話する声が小さく聞こえてくる。

「……ねぇ……彼、何読んでるの?」
「…うん、と…よく見えないわ……」
「きっと芸能欄よ。きっと彼、俳優かモデルだもの」
「でも顔知らないわ、まだ無名なのかしら」
「じゃなかったら若き投資家、っていうのはどう?株式欄チェックしてるのよ」
「それも素敵……!!!!」

 思わず吹き出すリュミエール。オリヴィエは彼女たちの会話には気付かなかったらしい。

「何がおかしいの」 
「なんでもありませんよ。…どうでした?」

 ちょうどグラスと小瓶が目の前に置かれる。オリヴィエはその瓶の封を切り、手慣れた手つきでグラスに液体を注ぐ。グラスが鮮やかなオレンジ色で満ちる。瓶を置き、グラスの薄い縁に唇をつけ、一口飲んでから、ようやっとリュミエールの質問に答えるオリヴィエ。

  「…うーん…今日のはオチがイマイチ。そろそろ落ち目かな、この漫画家」
 途端、町中に響き渡る鐘の音。9回鳴ってそれは終わる。少女達が慌ててテーブルを立ち、走り出す。革のローファーの軽やかな足音。同じ革の鞄につけられた様々な飾りが彼女達の髪と同じに揺れる。人並みが彼女たちをあっという間に隠し、彼女たちと彼らの関わりもそれを限りとかき消えた。

 そこに目の前を通り過ぎるバス。一瞬目に入る、タラップに立つ赤い髪。

「…意外と待たずにすみましたね」
「へえ、目がいいね、ここじゃ見えない。…バス?」
「ええ。もう飛び降りて、こちらに走ってくる」
「珍しい。ご自慢の愛車でくると思ったのに」 

「いい天気だ。たまには環境運動にも参加してみたくなってな」

 すでにオリヴィエの脇に立ち、会話に参加するオスカーにオリヴィエとリュミエールの二人は挨拶替わりに笑みを返した。

「この際、アンタのカマロの幌が壊れるように石塔に祈っておこうか」
「ふふ、そうしたら雨の日でも善行がしたくなります」
「さあ、どうかな。雨のデートも悪くないぜ?良い予感がする」

 オスカーが、その席に三度目のオーダーを取りに来たギャルソンに、カプチーノを頼む。行きかけたギャルソンをオリヴィエとリュミエールが同時呼び止め声を合わせて、持ち帰りで、と言い添えた。

「おいおい…、そんなに遅れてもいないだろう?」
「ゆっくりカフェの雰囲気堪能したいんなら、明日恋人と来るんだね。星の王子を気取って」
「ふっ。あいにく姫はきわめつきの箱入りで、ヒマラヤ杉の皮みたいなしわくちゃのばあやが入れた本物のショコラしか口に合わないんだ」
「…4頭立ての白亜の馬車に買い換えないと、良い予感は実現しそうにもありませんね」
 少し憮然とするオスカーの鼻先に紙袋が差し出される。彼に代わりリュミエールがメルシィと言って、ギャルソンからそれを受け取り立ち上がる。

「さ、行きましょう」

 リュミエールの手から紙袋を奪って、オスカーも立ち上がる。紙袋を破って中身だけとりだし、袋はオリヴィエの手に渡す。オリヴィエは即座にそれをリュミエールに手渡す。リュミエールの手の中で、紙袋はひねられ紙屑に姿を変え、ゴミ箱に入れられた。蓋の揺れが止まらぬうち、彼らはすでにカフェから離れたところを歩いている。

 誰もいなくなったテーブルに、ギャルソンがかけよる。腰をかがめてテーブルにくっつかんばかりに顔を近づけ、クロスに寄った皺をのばし、塵を掃く。ふと軽く風が吹いて、ギャルソンの目の前に赤い花びらが一枚はらりと落ちた。彼が顔を上げ一輪挿しに視線をやると、そこには瑞々しい息吹をたたえる赤い花。
 一瞬考えるふうにその花を見つめ、それから彼はまた視線をクロスに戻し、止まっていた手を再び動かし始めた。

(終)


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