彼女が三年前にその生涯を終えたことを、ニューヨーク・ポストの記事で知った。
私の中の彼女は少女のままだったから、孤独のままひとり亡くなった婦人とイメージを重ね合わせることは難しかったが、その記事にある懐かしい名前と、凛とした潔い人生の片鱗は、間違いなく彼女であると私に知らせていた。
レンヌ・ル・シャトーという名の小さな村で過ごした数カ月間は、私にとっても印象深い。マリー・デナルドー…そして彼女を思うに忘れるわけにはいかないもう一人、フランソワ・ベランジェ・ソニエール。彼らとの思い出深い日々。
季節はちょうど今頃だった。故郷にも似たイタリアのクレモナからドナウ川に沿ってウィーンに渡り、そこからフランスへ。あの頃の私は旅ばかりしていた。音を探して、木を探して。どの場所も美しく素晴らしい音楽に満ちていた、が…どの場所も私を引き留めはしなかった。
私は、ほんのなりゆきで、宿さえ無いその村の教会に半年近く滞在した。バイオリンなどとは縁遠いあの村に、私は何故あの時足を止めたのだろうか。こうして思ってみても不思議なことだ。
実際その間、何をしていたということもない。ただ毎日、マリーに教わって教会での仕事を手伝い、フランソワの話し相手をしていた。山間での素朴な暮らしは穏やかで、私の性に合っていたのかも知れない。
めぐる季節を私は行き、今は海辺の町に住む。石灰の崖に囲まれた白砂の入り江、河口のドックにひしめきあうヨットの帆柱。その向こうには石造りの古い建物が立ち並ぶ。印象派の発祥といわれるこの町は、どこをとっても完璧な構図の絵のような美しい町だった。近くのカフェでひととき息をつくと、顔馴染みの友人達が声をかけてくる。他愛ない会話に興じているうち、サン・カトリーヌから定時を知らせる曲が流れる。この国で最古の木造建築である教会のオルガンは、時を経た木に反響し柔らかな音がした。それが気に入ってここに住むことに決めたようなものだ。
何も起こらない、何も変わらない日々。退屈に思えるかもしれないが、私はこの平凡で穏やかな暮らしを愛している。この狭い町ではどこにいても絶えず聞こえてくる波の音に似て、いつの日の想い出も絶えず鳴り響き、私を通り過ぎていく。…いつもなら、あの日々もまた今の私を静かに通り過ぎて行くはずだった。
しかし、あまりにけたたましい幕開けは、そんなささやかな幸福も許さなかった。
◇■◇
目覚まし時計は持っていない。ということは、この私を呼び覚ますベルの音は、電話だ。何か寝苦しかったせいか、そんな簡単な答にたどり着くまでにしばし時間がかかった。耳には唯一自信があるのに。
大体、まだ夜も完全に明け切ってはいない。一体誰だ。
私は手を伸ばし、ベッド脇の受話器を取った。見知らぬ女性の声が耳にきんきんと響く。
「ムッシュウ、リュミエール・デュガリー?」
そうだ、とこちらが答えると、彼女は言った。
「アメリカのニューヨークから国際通話です、どうぞ」
交換手は私の了解も聞かずと、まるでマシンのようにそう言って電話を切り替える作業に入ってしまった。
ニューヨーク?…ニューヨークに知り合いなど…。
薄暗いベッドルームで、私はゆっくりと身体を起こした。
「え…?!」
息が止まるかと思った。───誰か横に寝ている!
『…もしもし…もしもし…もーしもーーーーーーし!!!!!!』
「あ、はいっ、はい!えっと、あのっ…だ、誰っっ??」
何から処理していいのかわからぬ私に電話の声が言った。
『よう。俺だよ、リュミエール。久しぶりでそんなに驚いたか?』
ひどく懐かしい声、その口調。すぐにわかる。
「…オ…?」
私は振り返り、寝ている人物を見た。顔は見えない、だが見覚えのある金色の髪。
「オリヴィエ!!」
『おいおいおいおいおい、違う!俺だ、オスカー!』
電話口の怒鳴り声に、私は慌てて答える。
「いや、オスカー、あなたはオスカー、わかってます」
『じゃあ何だ!』
「いえ、私の隣に寝てっ、いや…何で?どうしてここに?…すいません、今起きたばかりで頭が…」
混乱する私に、オスカーは呆れ声だ。
『一応そっちが朝になるまで待ってやったんだがな』
ちらりと、目覚まし機能の無い時計の文字盤を見る。
「…朝といえば朝ですが…」未だ5時を過ぎたばかり。
『じゃあ、明るくなったらニューヨークポスト買いに行け。そっちで言ったら昨日付けだ、お前のことが載ってるぜ』
「ニューヨークポスト?」
『寝ぼけてるヤツにこれ以上何言っても無駄だな。見りゃわかる、じゃあな』
電話はそれきり切れてしまった。
一体何だ。いやそれよりも。
私はベッドのシーツを引き剥がした。
「オリヴィエ、何ですかあなた!!」
「…うーん…?もう朝…何時?」
「いえ、朝といえば朝ですが未だ5時…ってそういう話ではなく!!」
「5時ぃ?…アンタってどこまでも年寄りくさい…そんな時間、未だ夜っ!」
オリヴィエはシーツを頭から被って再び寝てしまった。
一体どういうことだ。私はベッドの縁に座って、頭を振った。このまままた眠ればすべてを夢にできるかもしれない、が、このベッドに再び戻るのが条件となれば、私は迷わず現実を取る。
◇■◇
私はいつもそうしているように、まずシャワーを浴びた。それから自分の分の朝食を用意し、それを食べた。片づけをすませ外へ行き、いつもの店でいつもの新聞を買った。いつもなら、そのまま散歩に出るのだが今日のところはとりやめだ。
部屋に戻って新聞を読みながらレコードを一枚聞いた。二枚目のレコードをプレイヤーに掛けたとき、オリヴィエがようやっと起き出してきた。
「ワタシにもコーヒー、一杯」
居間のソファに倒れ込むようにして座る。クッションを抱え込み、今にも再び眠りに落ちそうなオリヴィエの目の前に私はコーヒーを置いて、言った。
「説明してください。…どうして私の横にあなたが寝ているんです」
「あ〜…んーと、いろいろ…あってさぁ…もう酷い目に遭って」
オリヴィエはあくびをし、未だ醒めぬ頭を軽く振った。
酷い目に遭ったのはこっちだ。私はため息をつきながら、オスカーの電話の声を思い出していた。寝ぼけてるヤツに何を言っても無駄。
それでも私はまだオリヴィエよりはまともだ。オスカーの電話の内容はきちんと覚えている。
お前のことが載ってるぜ。
残念ながら、ここ辺りでアメリカの大衆紙など置いている店に心当たりはない、少々遠出を覚悟しなければならないだろう。彼のわざわざの注進のためにも、オリヴィエにはしっかり覚醒してもらう必要がある。
オリヴィエも濃いコーヒーの一杯程度では役に立たぬとわかったようで、目の前の男は私に言った。
「お風呂貸して。んで、できればその間に何か食べるもの…」
仕方ない。私は黙ってバスルームを指し示した。はなからすべて借りるつもりなのか、何も持っていかず、彼はさっさとその方向に消えた。
しばらくすると水音がけたたましく響き渡り、呑気な鼻歌までも聞こえだす。
エルヴィス・プレスリー、『Blue Suede Shoes』だった。アメリカの人気歌手エルヴィス・プレスリーの登場は今年の世界十大ニュースになるだろうほどで、この国でもすでに評判だった。
お前が俺の家を燃やそうが 俺の車を盗もうが構わない
俺の酒を全部飲みたきゃ飲むがいいさ
したいようにすればいい
そんなフレーズを聴きながら、私は半ば諦め気味な気持ちでキッチンへと立った。バスタオルの一枚も入っていないのに、やたら大きい彼のトランクが行く道筋を阻む。したいようにしていいというなら、今の私はこのトランクを蹴り倒したい。
「…あ、れ?」
トランクのバンドに新聞が挟まっている。折り畳まれて全部は見えないが…。
「オリヴィエ」
蛇口をひねる高い音とともに鼻歌が止まる。「なーに?」リヴァーブのかかった声が返る。私は言った。
「この新聞、トランクのところにある…見せていただいていいですか?」
「ああ、あげるよ、そんなん」
新聞を引き抜いて見ると、思ったとおりニューヨークポストだった。なんという偶然。
| つづきを読む | HOME
|