雲が厚くたちこめ月星も見えぬ夜の底を、定刻通りパリから出た列車は南へ向かって走る。
車内はそれほど混んではいない、客達は皆深い眠りについていた。起きているのは私ひとり。何度か瞳を閉じたが、浅い眠りに落ちそうになっては小さな音や揺れに目が覚めてしまう。
ガラスに自分の姿がぼんやり映っている。その像に重なるように、とりとめのない記憶のかけらが浮かび上がる。見つめていると、自分は今起きているのか、眠っていて夢の中にいるのか、そんなことすら曖昧だった。
早朝からフランソワは所用で出かけてしまっていて、教会には私とマリーだけだった。その日は朝から雨が降っていたから、教会の修復作業も中止だ、訪れる人もない。私達は比較的のんびりと、家の中でできる仕事をしていた。
空はグレイ、季節が静かに移り変わっていく。一雨降るごとに、風景はその色を落としていくようだ。秋が過ぎ、そして冬。私も随分とこの村にいることになる。たかだか数ヶ月だが、ここのところの私にしては長居だ。
気に入ったなら、いつまでだっていてくれていいよ。初めてここを訪れた日、フランソワはそう言った。確かにここは居心地がいい。このままこの暮らしを続けてもいいし、実際そうすることも考えないではなかった。
ゆっくり視線を窓の外に移す。遠くけぶる山の稜線の上、妙に明るい白い空が高く広がる。一見ただの曇り空に見える。だが目が慣れてくると、細かな雨がしっかりと重力を持って音もなく地に降っているのがわかった。
こうした雨は…まるで身の内に降るがごとく、私の心のどこかにある虚ろに溜まっていく。
「…リュミエールさん」
向かいに座るマリーが私に話しかけてきた。フランソワはああいうが、彼女は私にだって自分から話しかけてくることは少ない。
「なんでしょう?」
彼女は私の顔をじっと見て、それから先ほどの私のように外を眺めた。その横顔は強張っていた。
「司祭様を…止めることは…リュミエールさんでも無理でしょうか?」
私はため息をついた。
「ええ…おそらく。あなたのお気持ちもわかりますが…」
私にはフランソワの気持ちも、わかる。
「あのままでは、お身体を壊してしまいます。お食事はおろか、最近はろくに眠ってもいらっしゃらない」
地下の柱の中から、古い羊皮紙が4枚出てきた日からだ。ラテン語の文書のようだが、そのほとんどが意味の取れない言葉や記号の羅列。彼は強く興味を示した。以来、神父の仕事の他は、自室に引きこもって何かに取り憑かれたようにありったけの資料を引き比べたりしている。時折部屋から出て来ると、疲れてはいるが明るい顔で言った。
リュミエール、僕はこの暗号を解いて見せるよ…ベイカー街の探偵のように鮮やかにね。
「何かに熱中するときというのは、ああいうものです。私も覚えがありますよ」
私は笑みを返したが、マリーの顔は沈んだままだ。
「なに、今だけのこと。そのうち区切りがつけば、元の生活に戻ります」
「そうでしょうか…」
区切りがつけば。…区切りなどというものがあれば、の話だった。私も最初は一時的なものとさして気にも止めなかった。むしろ好ましく思ったくらいだ。
だがここ数日の彼は少し違う、表情に明るさが消えた。そして今日の急な所用…マリーには言っていないが、ここのところの修復工事に急な中止命令が下ったのだ。理由も明かでなく、とにかくすぐに一切を取りやめろとの…おそらくこの教区を直轄するカルカソンヌではなく、もっと上部からの…伝令だった。フランソワは疲れた体をおして、無駄を承知でカルカソンヌまで行った。
何も聞かされなくとも、いつも見つめている。マリーが不安に思うのも無理は無かった。
私は強く彼女の手を取った。
「あなたの心配はもっともです。食事と睡眠はきちんと取るよう言いましょう。…でも」
私はつとめて明るい声で言った。
「あなたが直接言ったほうが、効き目があると思いますよ?彼はいつも私に聞いているくらいですから、どうしたらあなたが気さくに話しかけてくれるようになるかと」
「そ…っ」
顔を真っ赤にして、マリーは立ち上がった。
「そんな、あ…あの、私、お茶を入れてきます」
足早に走り去る、そのドアのところで彼女は振り返って言った。
「あの、さっき。覚えがあるって…それはバイオリンを作る時ですか?」
「え?ああ、そうですね、私の場合は」
彼女はようやっと笑みを見せた。
「こないだしてくださったバイオリンの話、とても楽しかったです。また聞かせてくださいね」
そう言って部屋を出ていく。軽い足音を聞きながら、私は自分の手を見つめた。バイオリン…。最後に触れてからどれくらい経つだろう。
彼女は優しく…勘が鋭い。人の心を感じ取り、具体的なところを汲んでしまう。
無意識で行われていることだけに…その性質がこの先彼女を苦しめなければいい。
階下から声が聞こえてくる。フランソワが戻ったらしい。私は立ち上がりドアへ歩み寄った。開けたとたん大きな物音と、マリーの悲鳴に近い声が私の耳を突き刺した。
「司祭様…司祭様っっ!!ああ…しっかり!」
慌てて手すりごしに下を覗くと、濡れたコートを着たままのフランソワが、マリーもろとも床に倒れ込んでいた。
明け方近く、トゥルーズに到着。そこから乗り換えリムーまで。駅は人で混み合っている。レンヌ・ル・シャトーの方面に行くバスが出るまでにはまだ時間があった。私はここで軽い食事を取ることにした。
リムーはシャンパーニュより古くからスパークリングワインが作られていたと言われる酒の町だ。オリヴィエの旅程にはここも入っているだろうか。まさか私のほうも旅に出たとは思っていないだろう。出会うわけもないと知りながら、私は周囲を見渡した。そのときだ。私は思わず振り向いた。
「もうずっと待ってた…待ちくたびれたよ」
英語だった。
人混みの中、姿は見えない。誰だ、まるで私に話しかけているような口調。しかし、その声はどこか妙だった。まるで遠い電話の声のように距離がつかめず現実感が無い。だが、どこかで聞き覚えのある…。耳には自信がある。
「今年…この1956年は記念すべき年………我々は歴史の証人さ。やっと始まった…そう、彼の登場によって、確実に何かがね。後から気付く鈍くさいのは置いてきぼり…わかってるヤツらだけで…興奮の時代の幕開けを祝おうじゃないか…」
答えは簡単だった。途切れ途切れに雑音が混じる…ラジオだ。近くのカフェの店先から響いてくる。一瞬の緊張が一気に解ける。しかしこの声…。私はなおも続きに耳を集中させた。
『さあ…ボリュームはMAX、身体が、心が、血がどうしようもなく騒ぎ出す…今日の一曲目…彼の初アルバムの一曲目とおんなじ、エルヴィス・プレスリー“Blue
Suede…』
すると私の隣に居合わせた若者が、独り言のように言った。
「あれ、“バードマン”じゃないか、こんなとこで聞くとは思わなかったな」
つい耳が反応したのは、その呟きがやはり英語だったからだった。ラジオの声は見事なキングスイングリッシュだったが、この声はアメリカ訛。…アメリカ人…。
その若者は、そのラジオをかけていたカフェに入っていく。私も後を追うようにその店に入った。
◇■◇
「まさか同じ村に行くところだなんて、すごい奇遇ですよね」
こんな偶然があるだろうか。…いや、今更驚きはしない。ここに私がいること自体がもう、偶然ではないのだ。少なくともこの件に関して、私の身の上に起こることは、すべて必然なのだと決めてしまう方が早かった。
目の前に座る若者…あの記事を書いた記者だ。
「フランスは未だ二度目なんですよ、前も今回も取材旅行で。だから未だ言葉がどうも…そんなわけで店でオーダーするのも四苦八苦ですよ。声をかけてくださって感謝します、ほんと助かりました!」
「いいえ、そんな…」
一応笑みを返すが、彼の屈託のないそばかすだらけの笑顔に胸中は複雑だった。
「旅先で助け合うことは、当たり前のことですから」
「え、あなたも旅行者なんですか。軽装だからここらへんの人だと。どちらから?」
私は彼の顔を見て、それからカフェオレを一口飲んだ。安物だ。
「…国内ですよ。レンヌ・ル・シャトーには珍しい教会建築があると聞いて興味を。建築を勉強しているものですから」
「ああ、なるほど。確かにあの教会はヘンですからね…」
彼はしみじみ頷いた。
「あ、僕ジェイムズ・スチュアートといいます、あなたは?」
私は小さく笑った。…ここで名乗ったらどうなるだろう。
「リュミエール・デュガリーといいます」
「よろしく」
私達は改めて握手を交わした。私はその間も注意深く彼を見ていたが、彼はこの名に特に反応しなかった。
「…と、そうだ、名刺がわりに」
彼は大きな布鞄の中から、新聞を取りだした。あの新聞だ。
「これ、この記事が僕の書いた記事ですよ、あの村についての。自分で見つけて、初めてひとりで任された記事だから燃えてるんですよ僕」
こっちじゃ結構評判だぜ? オスカーはそう言っていた。
「絶対モノにしてみせますよ!」
彼はテーブルをばんと叩いた。その勢いで、コップが大きく揺れて水がこぼれた。私は慌てて広げた新聞を上に上げた。
「あ、すいません!…これだからボスにも言われちゃうんだよなぁ、ミスで目立つより記事で目立てって」
「でも…、記事で目立ちようにも、これには記名がない。せっかく大きな扱いの記事なのにもったいない」
私は新聞を畳んで、礼を言って彼に返した。彼は「どうも」とそれを受け取りながら笑った。
「あはは、痛いところを。…聞いてくださいよ、それねぇ。僕の名前、俳優と同じなんで記名するのを止められてるんです、上司から。ヤツより有名になったら記名させてやるってね。酷い話でしょ?記名しないでどうやって有名になるんだ」
彼がまた大きく握り拳を振り上げたので、私は思わず自分と彼の分のコップを手で押さえた。
「あ、どうもすいませんっ」
「いえ…」
記名が無かったのはそういう訳だったのか。本当に…得てして真実は想像するほど面白おかしいものじゃない。
「そう言えば同姓同名ですね、J・スチュアート。見ましたよ、こないだ封切りになったばかりのヒッチコック監督の新作」
「それ、僕は未だだ、どうでした?」
私達はそんな他愛ない話題でしばらく談笑した。
よく食べよく笑いよく喋る。単純で熱しやすい性質、若いせいもあるだろう。
「ほんと…こうして英語で話せると気楽というか、安心するというか。嬉しいなあ、これもバードマンのおかげですね!」
そう言えばもうあのラジオはかかっていない。店には別の曲が流れていた。
「…あの、“バードマン”というのは?」
「ああ、DJですよ。プロフィールも謎、姿を見たものはいない、だけどアメリカに住んでる若いヤツならその声を知らない者はいません。僕もよく聞いた」
「聞いた、というと」
「ああ、こないだ終わっちゃったんですよ、DJバードマンアワー。大人気だったのにどうしてかなぁ?残念です」
こないだ終わった…。
「さっきかかってたのは録音のテープか…どこかで流してる再放送を受信したんじゃないかな?だいぶ前の放送だったし…あれ春先ですよ。あのエルヴィスを大々的にかけたのは、僕の記憶が正しければバードマンが最初だ、そのときの」
すでにファンの間じゃ伝説の放送ですよ、と彼は心から感服したように言った。
私は、こみ上げてくる笑いをこらえるのに必死だった。
シンプルなネーミング。彼らしいといえば彼らしい。あれは間違いなくオリヴィエの声だ。
───最近、やってた仕事をひとつ辞めたんだ。
今、その伝説のDJは、のんびりワインを飲み歩いて近々ここも通り過ぎると知ったら、この若者は飛び上がって驚くかもしれない。
…まったく、いろいろやってくれる。だが仕方ない、他のことならいざしらず、この運命は今更免れようもないものだ。
「そろそろバスの時間ですね」
「あ、ほんとだ。じゃあ行きましょう!」
行きがかり上、同行しないわけにはいかない。私達は共に立ち上がる。
“バードマン”が薦める一曲、私にはどんな展開を見せる曲なのか予想もつかない。
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