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06



 礼拝堂は、敷地のちょうど中央に位置していた。村の規模に似つかわしくない大きな建物で、そこかしこにゴシック様式の装飾がほどこされている。入り口には扉を守るように怖ろしい…が、美しく見事な…神と悪魔ともつかぬ彫像が二体立っていた。まるで生きているような躍動感だ。
 手すきの若い神父がひとり、案内についてきてくれている。私は彼に聞いた。
「こうした彫像などは、ソニエール神父がどこかから買い付けてきたものなのですか?」
「いいえ、彼が特別に作らせたものだと記録にはあります。この扉に彫り込まれた言葉は、ラテン語で『ここは怖ろしい場所』という意味です。なぜこんなことを彫り込んだかはわかりません」
 若い神父は抑揚なく機械的に説明した。
 スチュアートが私に耳打ちする。
「ね、ヘンでしょ?ソニエール神父は元々悪魔主義だったんですよきっと!そう思いません?」
「…さあ…私には…。でも悪魔を礼賛しているのなら『怖ろしい場所』とは言わないのでは?」
 素っ気なく答えを返す。スチュアートは子供のように口をとがらせて言った。
「あ、でもね。リュミエールさんだってあの絵見れば絶対ヘンに思いますよ」
 絵…?
「もしかして、立て直される以前からあった絵ですか?」
「そうそう…って、何でそれ知ってるんですか?」
「いえ、単なる当てずっぽうです」
「…なあんだ…びっくりさせるんだから、もう」
 私はすでに彼の言うことなど耳に入っていなかった。
「絵は礼拝堂の最奥の壁です。こちらへどうぞ」
 若い神父が私達を礼拝堂の中へと導いた。入り口の彫像などよりよほど、若い神父のほうが時計仕掛けの人形のようだった。

 随分と薄暗い。窓はたくさんあるのに、そのほとんどがぴったりと鎧戸を降ろされている。長く続く回廊はまるで深い洞窟のようだった。光が遮断されているせいか、外気とは違ってここちよく冷えた一定温度を保っている。
「何か大きなミサがある場合は開けることもありますが、大抵は締めておくことになっています」
 神父は説明をしつつ先を歩く。
「開けるつもりの無い窓をどうしてこんなに作ったのかなあ?本当に変わった人ですね、ソニエール神父は」
 スチュアートの問いに神父は言った。
「ああ、それを決めたのはソニエール神父ではなく、彼の後、ここの管理をずっとしていたマリー・デナルドーです。どういう理由かはわかりません」
 大きな扉の前に出た。ゆっくりと軋んだ音を立てて両開きの扉が開かれた。若い神父は扉止めを置き、そこを開け放しにしたが、それでも礼拝堂の中はやはり薄暗かった。
 たくさんの席が並び、最前中央に司祭が聖書を読み上げる演台がある。私達はゆっくりと中央の通路へ向かった。
 通りすがる時、私は最後列の通路側の席にそっと手を触れた。もうあの時の礼拝堂とは違うけれど。私はいつもこの席に座るのが常だった。そして…最奥の壁にあるあの絵を見るのが好きだった。
「あの幕の引いてあるところの壁に、その絵があるんですね?」
 神父は頷いて「今開けましょう」と言って一人で壇上へ向かった。私とスチュアートの二人は、壁から少し距離を置いた席に座って絵が現れるのを待った。
「気味の悪い絵なんですよ。一応マグダラのマリアらしいんですけど」
 そう、『悔悛するマグダラのマリア』。
 幕がゆっくりと引かれる。現れたのはまさしくあの絵だった。



 私は誰もいない礼拝堂の一番後ろの席に座って、最奥の壁にかけられた古い絵画を眺めていた。
 『悔悛するマグダラのマリア』。よくある題材だが、初めて見た時から心惹かれるものを感じて、いくら見ても見飽きるということがない。この絵は少し独特だった。
 飾られているのが礼拝堂ではなかったら、一見でこれをマグダラのマリアと…宗教画と思う者はいないだろう。その絵には、救いの手を差し伸べるイエスの姿、あるいはそういったことを象徴する事物がないのだ。
 暗い部屋で椅子に力無く座る女性がひとり描かれているだけ。美しく青白い顔はゆがみ、眉間には深い皺が刻まれている。右の手はだらりと下に投げ出され、左手が着衣の胸元を鷲掴んでいる。この絵は、まさしく己を悔いているさなかの彼女を描いたものだ。その苦痛と絶望がいかばかりか、生々しく伝わってくる。
 だが、それだけでは、ただ陰鬱な絵で終わったろう。こうまで惹かれるのはマリアの瞳が理由だった。顔はこちらを向いているのだが、視線は斜め上を見据える。身体に残った力をすべてそこにそそぎ込んで、まるで何かを睨みつけるような強い眼差し。
 この瞳の真意が今ひとつ掴みきれない。
 おそらく画家はこの瞳を描くのに最も心を砕いている。なのに何かひとつ…足りない。しかもそれを敢えてやっている印象なのだ。絵は堂々と完成している、力量が及ばなかったのでもない。謎かけのような絵だった。
 私は一向に進まぬ考えに半ば諦め気味に、天井を見上げた。雨漏りを防ぐ為か、天窓に板を打ち付けて塞いである。風情も何もあったものではないが、教会の要の礼拝堂が水浸しになっては問題だ。修復が進めば、この天井も近く綺麗に直されるのだろう。見苦しいのはそれまでの辛抱…。
「…あ!」 
 もしかして。私はやおら立ち上がり、奥の部屋へと続く扉へ駆けだした。
「マリー、ここには梯子はありますか?」
 裁縫の手を止めて、彼女は私の顔を怪訝な表情で見た。
「梯子…?」
「ええ、礼拝堂の屋根に登りたいのです」
「…梯子なら物置にありますけど…屋根…って…?」
「物置ですね、ありがとう!お借りします!!」
「いえ…でも一体何を…あ、司祭様…」
 マリーが階段のほうを見てそう言ったので、私も振り返った。フランソワがゆっくりと降りてくる。
「…やあ…何をそんなに騒いでいるんだい?」
「フランソワ!もう起きあがって大丈夫なんですか?」
 彼はずいぶんやつれて見えた。数日前、雨に濡れたせいで高熱を出し、そのまま寝込んでいたせいだ。
「なんとかね…起きるくらいは。楽しそうな声が聞こえるからさ、つい」
 彼は笑ったが、その笑みにはやはりまだ無理が残る。
「で、どうしたんだい?」
「わかったんです、あの絵。きっと私の推理は当たっていますよ。歩けるようなら…よかったら礼拝堂に来てください、マリーも!」
「…絵?」
 二人が同時に問い返す。私は微笑みを返した。これで彼も元気を取り戻すかもしれない。
「説明はあと…いや、説明なんかきっといりません。とりあえず私は屋根に登らないと!」
 行きかけて、振り返る。
「あ、フランソワ。すいませんが、屋根をちょっと壊すこと、ご了承くださいね、あとでちゃんと元通りにしますから」

 私が礼拝堂に戻ると、マリーが私の元に駆けつけるようにやってきて言った。
「ああ…良かった。リュミエールさん。お怪我なくて」
「心配ありがとう、で…わかったでしょう?私の不可解な行動の意味が」
 フランソワがこちらを振り返らずに答えた。
「…驚いたよ、リュミエール」
 私は彼の横に歩み行き、同じ方向を見た。フランソワは呟いた。
「こんなこと気づきもしなかった…あの天窓は、僕が来たときから塞がっていたから…」
 長く塞がっていた天窓から、白く薄い紗の帯をたらしたように一筋の光が差し込む。“マリア”がそれを見つめている。
 この光をもって、この絵は完全になるのだ。耐え切れぬほどの自戒の中で彼女は見つける、天から降りる救済の光。それは絵を柔らかく照らし、包んだ。
 画家は悔悛のさなかが描きたかったのではなく、救済の瞬間が表現したかったのだ。
 絵だけを見た時は、睨むにも近く感じられたマリアの眼差しだった。が、こうして光越しに見た今、その瞳には描かれているはずのない涙さえ見える気がした。
「姿はなくとも、神はいる。“いと高きところに”じゃない、こんなに側にだ。手を伸ばせば触れられるような光の中に、包む大気に、この地の至るところに」
 フランソワはそう言って襟を正し、その場に跪いて深く祈りの姿勢をとった。マリーも影のようにぴったりと、彼の後ろでそれにならう。
 厳かな沈黙がしばらく続いた。
 私はそんな彼らの横で、絵を見つめ続けていた。祈ろうにも体が動かない、目を離すことができなかった。
 驚きとも喜びとも違う。体の奥底が熱い、なのに小さく震えが走る。焦りにも似た衝動が、私の中を波のような強弱をもって繰り返し巡った。
 私は絵から目を離せぬまま、爪が食い込むほど強く拳を握った。そうでもしていなければ、立っているのもやっとなほどだった。ああ、今ここに…。

 そう思った瞬間、視線を感じた。フランソワが私を見ている。その真っ直ぐな視線に、私は自分の心が見抜かれたような気になり、つい顔を逸らした。



 あの時の、身を貫くような感覚が今まざまざと蘇る。
 スチュアートが大きな声で話しかけてくる。
「ねえ、怖い顔してるでしょう?まるで毒でも回ったように苦しんでる」
「…少し、黙っていていただけませんか」
 私は彼を置き去りにして、壇上の司祭のところへ足早に歩み寄った。
「すみません、近くで見せていただいていいですか」
 どうぞ、と神父は言って私の為に場所を空けた。私は絵の前に立って天井を見上げた。
「ああ…」
 閉められているが天窓がある。きちんと、絵に光が当たるような場所に。フランソワは忘れず覚えていてくれたのだ。
 もう誰も、この天窓の意味を知らぬだろう。この絵にはイエスはいない、イエスに代わる救済のイコンもない。それでも何かがあると、この絵の真意を知りたいと、歩み寄った者だけがその先に導かれる。

 …なぜ今ごろ気付くのだろう。
 絵を見た日から数日、フランソワはまた床にふせった。彼は私に会いたがらなかった。そしてマリーを通じて、パリに行って欲しいと頼んできた。自分に代わって届け物をしてほしいと。…そして戻って来るなと、彼は言った。
 私は何も聞かなかった。いや、聞けなかった。何か言おうにも、絵を見る私を見据えるフランソワの瞳が思い起こされて、浮かぶ言葉がほどけてしまう。結局、出発までの数日がただ過ぎ、私は彼にも会わずに村を出た。それが彼の望みなら、その通りにすることがせめてもの友情だと、そんな馬鹿げた考えであったかもしれない。
 今なら不思議とわかる。そうでも言われなければ、私はこの村を…少なくとも彼らのいる間は…出なかっただろう。彼らの側にいて、違う想いに囚われながら。フランソワは見抜いていた、横にいる“余所者”に立ち戻った私の心底。
 私はもう一度絵を見つめた。光の射さぬ絵、あの時よりもより深く私の心に打ち響く。
「…ありがとう、もう結構です」
 私はふと、足下に目をやった。驚いて神父に問いただす。
「これは…この木片は何ですか?」
 ああ、と神父は足下に転がるくさび形の木材に目をやって言った。
「ああ…わかりません。道の舗装で切った木か、修復の際に余った材木の切れ端じゃないかと。礼拝堂の地下にたくさんあるんです。少し変わった形だし、使い道もわからないので、いくつかはこうやって重しに使ったり、扉止めにしたりしています」

 ああ…何ということだ。これはスプルース、こっちは楓だ。きちんとバイオリンの製材の形をした。
 マリーだ。マリーが、私の為に。
「地下室へ行ってもいいでしょうか?」
「ああ…かまいませんよ」

 そう、あの絵に光が射した瞬間。私は…ここに木があれば、と思ったのだ。この心揺さぶられる衝撃に近い感動を、受け止めてくれる私の木が。65年の時を経て、今、私の目の前にはそれがある。


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