あえてこそ                 第一章

 目が覚めてしばらく、そのまま横たわっていた。
 小さな窓があり、見れば外が夜ではないことはわかるのだが、そこから光は直接には差し込まず、陽の高さまではわからない。あまり高くない天井は草で葺いてある屋根のそのままで、どこからともなく甲高い、鳥とも獣ともつかぬ鳴き声が響いてくる。それ以外に音はない。
 何もかもがべったりとまとわりつく。重くたれこめた熱気と湿気、麻のような生地でできた、今着ている見覚えのない衣服、周囲に澱む強く濃く甘い香り。
 上半身を軽く起こし、ひとつひとつを確かめるように視線を周囲に渡す。身体は鉛のように重く、こめかみからはゆっくりと一粒、汗が流れる。その滴の速度の遅さが、そのままこの場所の時間の流れのように感じられる。
 目にするもの、感じるものすべてが見知らぬものばかりだ。唯一、頬を伝って唇の端に吸い込まれた汗滴の、薄い味だけが妙な現実感をともなう。
 ここは・・・どこだ・・・・?そして私はなぜこんなところに?

 オリヴィエは、目覚めたばかりでまだ薄靄のかかった頭を振った。あの時、いつものようにサクリアを送るため王立研究院に出向き・・・。
 その後のことはまるで覚えていない。気付いたらここにこうしていた。どうみても主星では無い。どこか違う星のようだ。なぜ自分がこのようなことになっているのか、頭は混乱してうまく整理がつかない。
 思考を巡らせていると、軽い足音が聞こえてきた。誰か来る。オリヴィエは咄嗟に身体を元の態勢に戻し、目を閉じた。故意の闇の中で、息を殺し様子を伺う。
 軽やかな香りと衣擦れの音が、オリヴィエの皮膚の上を撫でていく。何か・・・・とても心地よい。その心地よさをひとつ残らずこの身にとらえようと、身体全体が敏感になるのがわかる。
 ふと、額に冷たいものがそっと触れた。手のひら。しっとりと包み込むように柔らかに、オリヴィエの額に触れるそれは、しばしの間そこにおかれたままだった。すうっと、その部分から徐々に、重苦しく強張っていた身体の力が抜けていくように感じられた。癒されていく感触。ずっとそうしていてもらいたい、とオリヴィエは思った。
 その手のひらの主を確かめたい欲求にかられてか、彼は無意識にその手に触れた。
「あ・・・」
 小さく声が響く。女の声。と同時に、その手のひらは即座に離れた。彼は至福の時を無意識とはいえ自分で破ってしまったことに少々後悔し、ゆっくりと瞼を開けた。
 そこには一人の若い娘が立ち、自分をのぞき込んでいる。
 歳の頃は自分と同じくらいか。まったく見知らぬ娘であった。
 長いと思われる黒い髪をきっちりと編み込んでまとめている。上等の絹のようにすべらかに輝く褐色の肌、形良く弧を描いた黒い眉、密な睫に縁取られた漆黒の瞳。
 一目で人を惹きつけ、忘れさせぬ魅力がその姿にはあった。やはり覚えはない。
 彼女は少しだけ驚いた風にその瞳を見開いていて、その中にオリヴィエの姿が映り込んでいる。彼女は、それ以上の動揺はさして見せず、すぐに笑顔を作った。オリヴィエは思わず口を開いた。
「だ・・・れ・・・・?」
 起き抜けだからだろうか、かすれて上手く声が出ない。そのせいか彼女はその言葉に反応は示さず、勝手に喋りだした。
「あなた、三日眠っていたわ。そのまま目を覚まさないかと思って心配したのよ。良かった、顔色も随分戻って」
 優しくオリヴィエの鼓膜を震わせる、凛と通る、アルト。
「三日・・・・そんなに?」
 驚くオリヴィエに、彼女は軽く微笑む。
「あなたの声、そんな声なのね・・・・。そして瞳の色。わかって嬉しいわ」
 そう独り言のように呟く娘に、オリヴィエはどう反応したものか躊躇した。
 いったい誰だ。何者だ?
 とりあえず起きあがろうと足を下ろし、力を込めた。ギシリ、と寝台が音を立てる。同時に目眩がオリヴィエを襲った。浮かせかかった腰が再び落ちる。オリヴィエの身体は重く意志に逆らい、それ以上はどうすることもできなかった。
「まだ無理だわ。怪我らしきものは見あたらないけれど、酷く疲れているよう・・・。今しばらくは横になっていた方がいいわ」
「・・・そうさせてもらうしかないみたい。・・・でもなんで・・・」
 オリヴィエは再びベッドに両足を戻しながら、問いかけた。
「普通、家の庭に人が倒れてたら、誰でもこうするんじゃないかしら」
 彼女は微笑み、即座に答えた。

 彼の心中をよそに彼女は言った。
「私はアユン。呼び捨てでかまわないわ。これはただの白粥です、食欲があるなら。お口に合うと良いけど」
 今持って来たらしい、盆の上にのせられたまま寝台脇に置かれた小振りの器を指さす。彼女はそれだけ言うとオリヴィエを気遣ってか、すぐさま部屋を出て行こうとした。
「あ!待って!」
 既に戸口から半身出たところで、彼女は振り返った。
「何かしら?」
 問い返されて思わず口ごもる。何か物足りないものが残っているような気がして声をかけてみたが、何から言ったらいいのか瞬時に浮かばない。取りあえず、とばかりに口をついて出た言葉は、礼だった。
「どうもありがとう。見も知らぬ人にこんなに良くして貰って・・・私は・・・」
「ああ、別に気にしないで。大したことは何もできないけど、せめて具合が良くなるまではゆっくり休んで」
 彼女はオリヴィエの言葉を遮るようにそう言って微笑し、消えた。

 名前さえ言う暇も与えずに、彼女は行ってしまった。まるで今起こったことが夢の中の出来事のように思える。
 オリヴィエはふと、横に置かれた器を見た。手に取り、一口すする。舌に広がる柔らかな熱。喉を越え胃に落ちるその感触が、まざまざと彼に現実感を呼び覚まさせた。幻ではない。二口三口と進むうちに、自分の身体がどれだけ疲弊していたか、そしてどれだけ空腹だったかがわかった。三日眠ったままというのも、どうやら本当のことらしい。
 器をすっかり空にして一心地ついたオリヴィエは、再び横になり目を閉じた。先ほどの出来事を思う。彼女の気配、甘やかな香り。そしてひんやりとした手の指の感触・・・。額にはまだその余韻が、彗星の尾のように後を引いている。あんなに心安らかになったことは今までにないとさえ思った。身体がとてつもなく疲労していたからだろうか。いやもっと違う、心の奥底から湧いてくるような安らぎだった。今まで気付かなかった傷に、直接触れてくるような。
 快い想像に、すぐに睡魔が襲ってくる。とにかく身体を癒したい。今はこれ以上何も考える力が無かった。


 アユンは自室でひとり、息をついた。彼が意識を取り戻した。それは彼女にとっても喜ばしいことだった。
 三日前。あの日は朝からいつになく酷い頭痛に襲われていて、一向にやむ気配が無かった。横になっていてもさして変わりも無く、気を紛らわす為に風に当たりに庭に出たのだ。そんな私の視界に彼は突然現れた。外庭の茂みに倒れている、どうみてもこの星の人間ではない青年。慌てて使用人を呼んで家へ運び入れた。
 彼の顔は血の気が失せて恐ろしいほどに白く、息もかすかで脈は弱く、一見してかなりの重病人だった。でも不思議と死の匂いはしなかった。彼の周囲の空気がそこだけ清らかに浄化していて、周囲からその身を守るように包み込んでいるように見えた。そう遠くなく回復の兆しを見せるはず、と何の根拠もなく思ったのを覚えている。
 それから今日まで、彼はこんこんと眠り続けた。私は様子を見に行く度に、何をするでもなく横に座り、じっとその顔を眺めていた。今まで見た誰よりも端正な顔立ち。いつまでだって見飽きるということはなかった。この人はどんな眼差しで、どんな声で話すのだろう。どこの誰か、ということよりもそれが知りたい。そんなことばかり考えていた。あまりに見つめすぎたせいか、もうずっと長い間、彼がこの家でそうしてきたように思えた。ずっとずっと、生まれるよりも前から、彼のことを知っているような気がした。実際には瞳の色さえ知らないというのに。

「・・・こんな物思いに耽っている場合ではないわね」
 アユンはテーブルに置かれた小さなベルを鳴らし、使用人頭のテユを呼んだ。頭といっても他には通いの食事係の娘がいるだけで、実質には彼しかこの家に使用人はいない。父母がいたころの名残でそう呼んでいるだけだ。今はアユン一人しかこの家にはいないのだから、世話する者など一人でも多いくらいだ。
「お呼びでございますか、アユン様」
「彼、意識を取り戻しました。先ほど行ってみたら目覚めていて」
「ああ、それは良うございました」
「彼のお世話は私がやります。あなたはいつも通りに。今夜からは食事は一応彼の分も用意してくれるよう伝えてください」
「承知いたしました。・・してアユン様、頭痛のお加減は?」
「ああ・・・まだ少し。でも大丈夫よ。いろいろしていた方が気が紛れるから」
「あまりご無理をなさらぬよう。では、私はこれで」
 テユは頭を垂れ、出ていった。
 彼に言われてか、アユンは思い出したようにこめかみを軽く抑えた。この頭痛。父が逝く少し前から時折襲う。父は死に際にもこの頭痛のことを気にかけていた。
 このところずっと治まっていたのだが、三日前に今までにない痛みを感じてからずっとその痛みは続いている。今はそれほどでもないが。
 母はその面影もおぼろなほど昔に亡くし、父も私が12の時に他界した。父は身体が弱かったから、私は学校へもいかずに、ずっと側で過ごした。読み書きは父が教えてくれていたので問題は無かったが、お陰で今まで話し相手となる友人のひとりもいない。父が亡くなってからもう7年程の時が経つが、元々世間とのつき合いがあまり無かったせいで、今もまるで隠遁しているような生活だ。淋しい暮らしだと人は思うかもしれないが、最初からそうだったのだから比べるべくもなくて、それほど気にしたこともない。
 ここのところ頭痛に悩まされながらも、どこか心浮き立つ感じがするのは、やはり彼がいるからなのだろう。彼は今夜には食卓につけるだろうか。誰かと向き合って食事をするなど久しくしていなかった。
 アユンは訳もなく鏡の前にたち、さして乱れてもいない髪を整えた。


つづきを読む

| HOME | NOVELS TOP |