小説『薔薇色の日々』              01

 時折野を越えて渡ってくる風は頬に冷たいが、今日はそれでも陽射しがある。数日前まで、この季節には少々珍しい嵐がきていた。老人は、そこかしこに散る折れた枝や木ぎれを拾い集める手を止めて、腰を伸ばし額の汗を拭った。彼の視線の先に人がひとり、こちらへ歩んでくる。老人は慌てて帽子を取り、うやうやしく頭を下げた。
「若様、ご機嫌よろしゅう」
「やあ、ヨハン!ご苦労だな」
 若と呼ばれた青年は答えて、笑顔を湛えて老人の側近くまで足を早めた。
「用向きとあればいくらでもはせ参じましたものを、アンリ様」
「ああ、いいんだ、大した用じゃないから」
 白い息が青年のまだ弾む胸と同じリズムで現れてはあたりにすぐとけて消える。
「お前ともここのところ話していなかったから。・・・邪魔ではないか?」
 老人はゆっくり頷く。
「嵐の後始末かい?若くないお前にいつまでもこのような仕事は辛いこともあるだろうに、よくやってくれて。感謝している」
「この爺、馬の世話しか取り柄のない・・・この他のことはできません。長くない余命をこの城の馬達とともに暮らせることが何より幸せと思っとります。隠居なぞ考えにもありませんや」
 老人は目を細め、遠くに映る馬の姿を見やった。愛しいものを見守るそのままで老人は青年に視線を戻す。
「厩舎にまで足を運んでこの爺と話したいなどと、本当に若はお優しい方ですなあ。お小さい頃とまったく変わり無い。・・・いや、そう言っては失礼ですな・・・時の経つのは早いもの。あのように小さかった若も、今や立派にこの領地を治めておられる」
「おいおい。まだ父は引退したわけではないぞ!昔の父が聞いたら斬首ものだ」
 彼は白い歯を見せてオーバーに笑ってみせる。老人も連なって笑った。殺伐とした会話のようだが二人からはみじんもその様子は感じられない。
「まったく、昔の領主様は猛る方でしたから。騎馬は要と、随分とここにもいらした・・・間違いがあってはならぬと、日々背筋を伸ばしてお世話したものです・・・ああ、もちろん今も真面目にやっておりますよ!」
「大丈夫、そんな揚げ足は取らないよ。お前がきちんとやってくれるから、ここのこといっさいは任せているんだ」
「ありがたいことで。・・・あ、そうそう。ご報告は特にいらないとのことでしたが、田舎に帰ったマックスの後、先日ようやっと人手が見つかって。一存で雇うことにいたしました。・・・今は馬場のほうに・・・」
 呼びに行こうと一歩踏み出した老人をアンリは軽く制した。
「仕事の邪魔はいけない、ここで働いているなら近く会うこともある、今はいいよ。その様子だと、その人選に間違いは無さそうだし」
「ええ・・・若いのに馬にも詳しくて、真面目によく働く気持ちのいいヤツです。楽させて貰ってます、この爺も」
「それは良かった!」
 老人の嬉しそうな顔に満足げな様子の青年は、さて、と会話を切った。
「そろそろ戻る。今夜、母のところへ行くからその時は馬の用意を頼む」
「マーゴット様の城へ?それは珍しい」
「なんでも今、来客がいるらしいよ。歳の頃も近いとかで、私に紹介したいらしい。夕食の誘いだ」
 老人はにやにやと笑った。
「そりゃあれだ、お見合ってやつじゃ?マーゴット様も珍しく母親らしいことを」
「ははは、残念ながら男だよ。母上の退屈しのぎさ、いつものように。私が話し相手になれるような気の効いた息子なら、わざわざ居城を異にしたり、そんな客人を迎えなくてもすむんだろうけど」
 彼はそう言ってここからも見える母の居城を見やった。
「どんな御仁か知りやせんが、あのマーゴット様の話し相手になれる若い男、というほうが珍しいんじゃあ?アンリ様がすまなく思うことじゃ・・・」
 そう言って肩をすくめる老人に、でも、と青年は少し寂しげに微笑んだ。
「私はそうなれたらってずっと思っていたよ」
「アンリ様・・・」
「何にせよ、呼びつけて自慢したいほどの友人が母にできたのなら、息子としては喜ぶだけさ」
「さようでございますね。では丁度良い、今夜の御者には先ほど言った者をやりましょう」
「そうだな、よろしく頼む」
 青年は一度扉に歩みかけて、それから今一度振り返った。
「名前だけ聞いておこうかな、その・・・新しい」
 老人は言った。
「ああ、オスカー、と申します」


「まったく!!急に、わりこんできたあげくに!!」
 かなきり声があたりに響く。
「今夜は私がアンリを夕食に呼んだのよ。そのつもりで支度だってしていたのに!あの人の城にも客人がいるから、そこまでは良いわ。だからってアンリもまとめてこっちの城へ来いってどういうこと!?」
 憤懣やるかたないといった様子の女主人に、年長の侍女が一歩前へ歩み進んだ。どうやらこの城で、女主人にもの申せるのは彼女、ノエラだけのようであった。
「・・・お断りする、ということもできますが。マーゴット様」
「んまあ!そんなこと言ったら今夜の予定が、はなから無しになってしまうわ!」
 女主人はますます声を荒げてから、悔しそうに唇を噛んだ。
「アンリは絶対あっちに行くわ。あの子は私にもいい顔しておいて、結局立てるのはあの人の方なんだから・・・」
「仕方ありません、主はガストン様です。アンリ様もお辛い立場。良い機会ではありませんか、日頃居を異にして顔を合わせることすら少ないご家族が夕食をともにできるんですから」
「それはそうだけど・・・まったく悔しいわ!」
 なおも言う女主人。ノエラはため息ひとつついてから、側近くの女中のひとりに言った。
「・・・・客室の様子はどうでしたか?もう起きていらっしゃるの、あの方は」
「!」
 耳ざとくその台詞を聞きつけた女主人は、急に慌てて振り返った。ノエラは事も無げに言う。
「マーゴット様のお怒りをおさめるのは私でも無理のようなので」
「い・・・いやね、ノエラ!そんなことないわ、あなたはここに嫁いで来る前からの侍女じゃないの!いいのよ、別にそんな気を回さなくても。・・・ごめんなさいね、つまらないことをいつまでも言って・・・もういいの、いいのよ」
 打ってかわって殊勝な態度に変わる女主人。頬は紅潮し、笑みさえ浮かんでいた。
「ですがもう昼近くです、そろそろお声をかけてもいい頃」
「あ。あらそう?もうそんな時間?昨日夜更かししていたみたいだったから・・・朝も弱いと言っていたし・・・でも今夜のこともあるし・・・そうね、そろそろ・・・ああ、いやだわ、私、なんだか髪が崩れているみたい」
「そんなことございませんよ」
「でもほら今日は朝からいろいろとしていたから・・・ちょっとそこのあなた!」
 女中の一人を呼びつける。
「少し手伝ってちょうだい、ああ、何だかドレスも気に入らない、着替えることにするわ、ええと何に・・・」
「マーゴット様」
「何?ノエラ!」
「・・・・・・では、お声かけしてよろしいのですね?」
「ええ、もうお昼ですもんね、彼が起きたら呼んでちょうだい、私いろいろあるから!!」
 言い放ち、そそくさと女中を連れだって、女主人は部屋を出ていってしまった。ノエラは静かに近くの者に言いつけた。
「オリヴィエ様をお起こしして。昼食の時間ですからと」


「・・・何やら今日はいささか慌ただしい雰囲気でございますね、ガストン様」
 男は窓の外を見やって、口を開いた。ガストンは昼食の最後の一口を頬張りながら答える。
「ああ、今夜、夕食会をな。珍しくそんな話になっておる」
「どなたかいらっしゃるのですか?」
「なあに、妻と息子だ。面と向かうのは久しぶり、だがな」
「ご家族水入らず、というわけですね。それは素晴らしい」
「別に素晴らしいことなどない。息子は断りきれず来るだけだし、マーゴットにいたっては愛人を連れてのお出ましだ」
「愛人?」
「あの嵐で迷ったのは、何もそなただけではないらしいぞ」
 そう言ってから乱暴に口を拭う。だがその様子は不思議と品無く映らない。主の威厳がそうさせるのかもしれないと男は思った。そんな視線など気にするでもなくガストンは続ける。
「あやつの居城にも、どこかの放浪貴族が助けを乞うたらしい。息子ほども若い男にあられもなく浮かれていると聞いた。まったく歳を省みない女だ」
「そのような・・・。でも確かに、ご家族での夕食会にまで呼ぶというのは」
「ああ、それは我がそう言ったからな。別にマーゴットが誰に何をしようが興味は無いが、こっちにも客人がいることだし、と」
「では、私も・・・?」
「もちろんだ。単なる夕食だから、別に気負うことなどない」
 それでも、と躊躇の色を隠さない男に、主は豪快に笑った。
「控えめな男よの。そこが我がそなたを気に入った所以だが。・・・まあいい。ここでワシの相手ばかりも退屈であろうから、気分を変える意味でもな」
 男は微笑みを返す。
「退屈など。窮するところを助けていただいたあげく、このような厚遇に心苦しいばかりでございます」
「今は客を迎えるどころか、使用人以外と口をきく機会すらあまりない。久々に楽しませて貰っている、リュミエール」
「甘えさせていただいています」
「今夜のことは、我の我侭と聞いてくれ。息子も、その愛人も、そなたと年頃も近いらしい、合う話もあるかもしれぬ。」
 悪いが先に失礼する、後にまた。そう言って主は部屋を後にした。そのドアが締まるのを見てから、男は呟いた。
「合う話・・・ですか。ご子息はともかく、その愛人とやらとは到底あるとは思えませんが・・・」

つづきを読む
| HOME | NOVELS TOP |