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                1980 
              
              Feb?/元夫と同居を開始 
              ●元夫に結婚の許可を求められた母は、別の恋人(母が何人まで知っていたかは不明)との関係を清算するという条件を出し、家の一部を貸したがっているという池袋の彼女の知り合いを紹介してくれて、80年はじめ、わたしは前夫といっしょにそこで暮らし始めた。 
              入籍はまだの状態だった。わたしたちがいっしょに暮らすのを急いだもう一つの理由は堕胎のためだった。 
              わたしは妊娠したくなかった。漫画を描きながら、同時に完全な母親として子供の面倒を見るのは不可能だとわかっていたからだ。わたしはそのとき全く罪の意識もなく、迷わず堕胎にのぞんだ(その因果応報のてんまつは「星の歴史」をご覧ください)。 
              実はわたしは自分では確実な避妊の方法を知らなかった(高校に行っていれば習ったかも!)。母はセックスのセの字も口にしない潔癖な人で、友だちもまじめなタイプばかりだったのだ。それで経験豊富なこと間違いなしの夫に、確実な避妊を頼んでいた。夫は膣外射精という方法が確実であると言って、それを実行していた。それが確実な方法でも何でもないとわたしが知ったのは、長男出産のあと、病院が行ってくれた家族計画の講習を受けた時である。 
              もちろん自分が母親になったあかつきには、息子が中学に上がるやいなや、自ら性教育を行った。 
              ともかくそんなこんなで、妊娠の理由はわたしには謎だったのだが(馬鹿!)、もっとおかしいことに(実は当然なことに・・・)堕胎後またすぐに妊娠してしまった。 
              さすがに再度堕胎する気にはなれず、たとえ母親が完全でなくても、生まれないよりはマシであろうと考えて、わたしは出産を決意した。 
               ●そんなことと同時進行して、夫と暮らし始めてしばらくしたころ妙なことが起こり始めた。 
                「たばこを買ってくる」と言って出ていった彼が、3日も帰ってこないようなことが続いたのだ。 
                うぶな(?)19の娘であったわたしは、寝ずに彼を待ち、相手が「ダチとマージャンしてたんだよ。」と言うと、男の人とはそんなものかとうのみにしていたものだ。 
                しかしまもなく真相がわかった。彼があるとき、以前の恋人ともまだ同棲状態であり、どちらを選ぶこともできない、と告白したのだ。 
                わたしはその時、(少なくともはじめは)我ながら合理的な提案をした。だったら3人で住めばいいじゃないですか、と言ったのだ。それで前の恋人さんと3人で話し合って(私たちは彼が学校に行かないからと言って、彼のおじいさんが決めてくれた就職先のある、福島に移転することになっていた)、福島で一緒に暮らすことにした。 
                その晩、彼は酔ってさっさと寝てしまい、その女の人とふたりで話した。結構いい人で、しっかりもしているように見えた。夜が更けて、もう休もうということになって、ほとんど意識不明の夫を挟んで、3人で横になった。(なんだか週刊誌の記事みたいで申し訳ありませんが)その時に、私たち女ふたりは、(「ただ寝ただけ」で3人でセックスしたわけではないけれども)これがとほうもない、気味の悪いことだと気付いた。今思えば、あのとき彼女とふたりで、女ふたりを従えていい気になっている、あの太った男を袋だたきにして追いだし、乾杯でもすればよかったのだと思う。 
                しかし、(こんな実りのないものが本当に愛かどうかはわからないけれども)わたしたちは彼を愛していると思っていたので、その晩のすさまじい屈辱に耐えた。 
                結局彼女は、福島には来なかった。 
                ●実は夫がジェームス・ボンドタイプなのを始めから知っていたこともあって、女性問題はわたしには比較的大きな(小さくもないが)問題ではなかった。夫と住み始めたあと、さらにもう一つ別の大問題が発覚した。飲酒に伴う暴力である。 
                わたしは父親がいわゆる酒乱だったので、そういうことには詳しい気でいたが、酒乱の人たちが家庭以外の場所で、結構普通に振る舞えるということを知らなかったのだ。 
                また父は若いときこそ暴力を振るったものの、わたしが生まれた時点で50歳。母が非常に強かったこともあって、暴れたり怒鳴ったりごちたりするものの、わたしは直接暴力にあうことはほぼなかった(覚えている限りで1度だけ)。しかし夫はまだ若く、力もあったので、この問題は時が経つにつれ深刻になっていった。 
                ●福島に移り住んでからは、なぜかわたしは彼の親戚(ちょっとややこしいですが彼も実は母子家庭の子で、福島の親戚というのは、彼のお父さん方の親戚)に対して長いこと存在を隠されていた。 
                間違いなく彼は結婚したくなかったのだと思う。それをわたしがはっきり認識したのは、なにかのきっかけでわたしの存在が彼の父方の一族(いい人たちでおじいちゃん、おばあちゃん、おばさんたちにはかわいがっていただきました)に知れ、結婚話が進み、妊娠5、6カ月のとき東京と福島の両方で、友人や家族親戚や彼の職場の人たちが結婚のパーティをやってくれ、届け出用紙にハンコも押して、さあ籍を入れに行きましょうという段階になったときだ。 
                彼は行くとも行かないとも言わず、ただ子供のように寝転がって、動こうとしなかった。 
                わたしは自分のお腹がどんどん大きくなり、かつみんながさんざん祝ってくれたあとでなにをアホなと思って、ひとりでさっさと役所に行って手続きをしたけれども、なにかとんでもない間違いが起こっていることは、すでに疑いなかった。 
                
                
              
                1981 
              
              Apr.7/長男祐(タスク)生まれる 
              ●夫の暴力で出産が早まったが、どうにかスレスレの体重で長男が生まれた。 
              祐という名は、英語の「TASK(果たすべき仕事、義務)」から取って、わたしが付けた。自分が何をするために生まれた人間か、知っているような人間になってほしかったからだ。 
              この「TASK」はあとからPALMの最終話のタイトルにもなった。 
              May.4/投稿第6作「架空の線(WORKS/中短編/「2821コカコーラ」参照)」シナリオ完成 
                Nov.28/「架空の線」完成 
                ●タスクが生まれた後、産後一カ月は動いてはいけないのだと言って、母とか祖母が手伝いにきてくれたので、その間にわたしは5年ぶりの投稿作品であるこの「架空の線」のシナリオを書いた。 
                そういえば1979年以来作品の記述がないが、結婚しているあいだは、ずっと習作「JACS in スタンダード・デイタイム」を描いていた。確か下絵を含めて1日1枚くらいのペース(その都度下絵を描いてペン入れをするという変なやりかたをしていた)で描いていたのだと思うが、それにしてもずいぶん時間がかかっている。 
                実は夫がわたしに最初に興味を持ったのは、女の子のお遊びと思っていた漫画描きが、実際に見てみたら本格著作活動だったからだという。彼は結婚してから一度「書くなら金にしろ」という意味のことを言ったが(もちろん人に言われなくてもプロになる気だった)、結婚後はなにぶんほとんど家におらず、いるときは酔って意識がないか寝ているかだったので、事実上わたしや息子が普段どうしているかは知らず、感心もなかったのだと思う。 
                「架空の線」はジャンルがわからなかったので、ある出版社の漫画賞か何かの、青年誌部門と少年誌部門に送ったのだが、新書館でデビューが決まったあと、少年誌のほうから声がかかった。 
                
                
              
                1982 
              
              Apr.13/習作「JACS in スタンダード・デイタイム」完成 
              ●タスクが生まれてからも夫の暴力はやまず、それまで隠していた夫の親戚やわたしの母にも発覚するまでになった(特に夫の祖父にばれたいきさつは不思議で、わたしの顔があきらかにボコボコになっている朝、虫が知らせたと言って、突然おじいちゃんが夫の父を伴って押し掛けてきたのだ。わたしはトイレに隠れていたのだが、結局出ていくことになった)。 
              この年の初夏にわたしは一時タスクを連れて家出し、3カ月母のところに滞在した。最初の別居である。 
               June.1/「あるはずのない海」制作開始 
                June.14/「あるはずのない海」シナリオ1稿完成 
                July.30/「あるはずのない海」レイアウト完成 
                Aug.28/新書館に「JACS in スタンダード・デイタイム」「心寂しきカリフォルニアの夜」を持ち込む 
                ●別居して母のアパートに泊めてもらっている間に、わたしは「あるはずのない海」のシナリオを書き始め、レイアウトまでを完成した。 
                追い詰められた状態の人間に、どんな運命が作用するかは誰にもわからない。この時は確かに不思議なことが起こっていた。久しぶりに戻ってきた東京で、わたしはクミやマリなどの友だちに会い、結婚の悩みや、夫のことや、いろんなことを相談したのだろうと思う。クミは新書館が当時出していた薄い、印刷のきれいな「グレープフルーツ」という雑誌を見せて、「こういうところに持ち込んでみたら」とすすめてくれた。15歳で漫画を読まなくなり、大人になってからも夫が買ってくる「ビッグ・コミック」しか目にしていなかったわたしには、新書館がどういう出版社かも見当がつかなかったが、クミを信頼していたので、即持ち込みを実行に移した。このとき、わたしははじめてPALMのシリーズを出版社に持っていった。今までは投稿だけだったので、枚数が多すぎたのだ。 
                後にわたしの初代担当者になることになった関口さんが、「今こういう雑誌を出し始めたんだよね。」といってウイングスを見せてくれたが、わたしはグレープフルーツに持ち込んだ気でいたのでよく見ていなかった。 
                その日は「あるはずのない海」のシナリオを送る約束をして帰った。 
                Oct.23/新書館から依頼。「お豆の半分」のシナリオと最初のレイアウト完成 
                ●持ち込み後、夫と話し合って一度よりを戻した福島で、わたしは「あるはずのない海」のシナリオを読んだ関口さんからの手紙を受け取った。関口さんはシナリオをとても気に入ったようだったが、とにかく長いから、シリーズを短く抜粋した話で、「ウイングス」でデビューを、と書いてあった。 
                わたしは「ウイングス」がどんな本だったかよく思い出すことができなかった。 
                
                
              
                1983 
              
              ●デビューが決まったのはよかったが、話し合ったいろいろな約束は守られず(酒をやめるとか何とか)結婚生活は相変わらずだった。というより悪くなった。夫はお金になるからデビューを喜んでいたのだと思うが、彼は病的なまでに嫉妬深かったので(例えばわたしが男性フィギュアスケーターの技術を褒めただけで激怒してしまうほど)、飼い鳥を外の世界に離すのが不安だったのだろうと思う。 
              ちょうど「お豆の半分」執筆半ばで、彼の暴力は命の危険を感じるまでに達した。 
              わたしは息子を連れ原稿を持って新幹線に乗り、3年後の離婚調停まで、二度と福島の土は踏まなかった。 
              Feb.14/「お豆の半分」完成 
               Mar.5/ウイングス4号にデビュー作「お豆の半分」掲載 
                ●デビュー後の製作環境は結構きびしかった。タスクが順番待ちで、来年まで保育園に入れないとわかり、昼間は彼を見て、夜中に描くという生活が続いたのだ。居候先の母のアパートは6畳一間だったので、ふたりが寝た後小さなスタンドをつけ、洋ダンスの扉でふたりから明かりをさえぎって描いた。 
                Apr.7/「お豆の半分・それからどうした」完成 
                Sept.14/「カインド・マシン」完成 
                Nov.21/「PALM/お豆の半分」完成 
               
              
 
           
            
             
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              デビュー後3年ごろ。 
右も左もわからず、自分では とても初々しい気でいたが、 今当時の写真を見ると なぜかあんまり・・  - 1986 Age 25 or 26 
              
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