●1946年12月29日生まれ。イギリス人のグリン・フェイスフルと、エリソ男爵夫人の間に生まれるが両親は1953年に別れ、それ以来母親と暮らし修道院で教育を受ける。
●1962年夏、チャーチル・カレッジで催されたダンス・パーティでジョン・ダンバーと出会う。
●1963年、ケンブリジッジ在学生のジョン・ダンバーと婚約。
- 1964年3月27日、歌手エイドリアン・ポスタの16歳の誕生パーティにダンバーといっしょに出席。オールダムは彼女に目をつけ歌手になるように勧める。ミックは彼女に近づきわざとシャンペンをこぼして印象つけたという説もある。しかしマリアンヌは印象は最悪で「ニキビだらけのおぞましい男」としかうつらなかったようだ。
- 1964年、パーティから7週間後、オリンピック・スタジオでデビュー・シングルを録音。
- 1964年夏、ミックとキースによる『As Times Goes By(後にAs Tears Go Byに改題される)』を発売し最高9位のヒットを記録する。
- 1965年春、ジョン・ダンバーはマリアンヌにプロポーズし婚約を発表。
- 1965年5月6日、ケンブリッジシャーの州の登記所で22歳のジョン・ダンバーと18歳のマリアンヌは結婚する。
- 1965年11月10日、体重2600グラムの男の子を出産。ロバート・ニコラス・ダンバーと名付けられた。
- 1966年10月7日、ティナ・ターナーの招待でコルストン・ホールに行く。ステージの後、アイク・アンド・ティナ・ターナーと一緒に出演していたストーンズのミック、キース、ブライアンらと一緒に近くのホテルに車を走らせる。マリファナ煙草を吸いながら夜を過ごす。最後に部屋に残ったミックを「散歩しよう」と誘う。そのとき、ミックに対してステージでの印象とは違う素直で穏やかな印象を受ける。
- 1966年10月、イタリアから戻ったマリアンヌのもとに、ブライアンとキースからのフラットへ招きの電話が入る。みなでLSDをやり、結局キースと一夜を過ごす。マリアンヌはキースが気に入っていたが「ミックがマリアンヌを恋しているから、このことは誰にも言わないように」と告げられる。
- ジョン・ダンバーとの結婚生活が続いていたが、ミックとの隠密な交際が始まる。
- 1967年1月、サンレモ歌謡祭をジャガーと訪れ、交際が公となる。
- 1967年4月、ロイヤル・コート劇場で『三人姉妹』のイリーナに扮し女優デビュー。
- ジャン・リュック・ゴダール映画『メイド・イン・USA』でスクリーン・デビュー。
- 映画『明日に賭ける』の「ジョーシー」役でオリヴァー・リードと共演。
- 1967年8月5日、映画『あの胸にもういちど』でアラン・ドロンと共演が決定。
- 1968年春、ミック・ジャガーとの子供を妊娠。静養のためアイルランドのチュアムに屋敷を借りる。
- 1968年11月22日、出産予定日2ケ月で流産する。女の子が生まれていれば「カリナ」と呼ばれるはずだった。
- 1969年2月28日、ラウンドハウス劇場で『ハムレット』のオフィーリアに扮し好評。
- 1969年5月29日(or 28日)、チャイン・ウォークの自宅でミックとマリアンヌは麻薬捜査班から告発される。
- 易占いでブライアン・ジョーンズに関する悪い結果(水による死の予言)が出たため、ミックとレッドランズに滞在していたブライアンを訪ねる。
- 1969年7月3日(ブライアンの件は2日から3日にかけて起こっている)、プリンス・ルーパート・ロウエンスタイン主催の「白い服を着て集まる」パーティに黒いドレスを着てミックとともに出席。
- 1969年7月6日、トニー・リチャードソン監督『太陽の果てに青春を』でケリー役(ミック・ジャガー)の恋人で出演するためにミックとともにオーストラリアに飛ぶ。
- 1969年7月8日、オーストラリアに到着後、シェヴロン・ホテルへ直行。時差ぼけを解消するためにホテルの13階のスィートルームでベットに入った後、ホット・チョコレートで流し込んだ大量のツイナールという錠剤によって意識不明に陥る。
- 1969年7月10日、生命は絶望と見られる。
- 1969年7月20日、危機が回復し、エヴァ・フェイスフル(母)が駆けつける。『太陽の果てに青春を』の撮影はフェイスフルの代役が立てられる。
- 1969年8月6日、昏睡状態から回復し退院。
- 1969年11月、ミックとの関係に限界を感じたマリアンヌはマリオ・スキファーノ(映画監督)とローマに移る。
- 1969年12月24日、スキファーノと住む家にミックが訪れ、再び和解する。しかし二人の関係は終わっていた。
- 1970年6月、ペルシャ製のラグだけを抱え、ニコラスを連れてミックとの家を去る。
- 1970年6月、ミックにフランスの新居に行こうと誘われるが断わり、母親の住むアルドワースに戻る。ミック・ジャガーとの関係を絶つために、自分のイメージを壊すため贅肉をつけ美しさを破壊した。パートナーにも完璧なイメージを望んでいたミックは、その姿を見ると二度とコテージを訪れることはなかった。
- 1970年6月29日、ローマで和解したときミックが買ってくれたミンクのコートを税関で申請しなかった罪でアックスブリッジ下級裁判所に出廷。
●1970年10月30日、ジョン・ダンバーとの離婚成立。
●1972年、ベクスレー病院の薬物依存患者用ユニットに入る。
●1979年、ギタリストのベン・ブリアリーと結婚。
[付録:マリアンヌ・フェイスフルを形容したセリフ]
●1960年代「修道院の女」「セクシーさと処女性をもつアンチヒーロー」「才能は重要ではない」「マリアンヌがかもしだす悲劇的雰囲気」「洗練された意味でのセックス・シンボル」「ドラッグ中毒の色情魔」「無垢から好色へ、おすまし屋から下品へ、処女から娼婦へ」「エキセントリックな非行少女」「堕落した道徳のシンボル」
●アメリカ人歌手兼女優。
- 1969年春、ミック・ジャガーはハントと出会いセントジョンズ・ウッドのハントのフラットに通う。彼女のことをミックは「ミス・ファジー」と呼んだ。
- 1962年7月5日、ハイド・パークのコンサートの後、ミックはマーシャの家でオーストラリア行きの前日の夜を過ごす。
- 1970年4月、妊娠したことをミックに告げる。
- 1970年11月4日、パディントンのセント・メアリーズ病院でカリスを出産。
- 1973年6月、子供の認知申請をメリルボーン治安判事法廷に提出。しかし、この申請は受け付けられず、示談成立。
- 1978年、養育費の要求。
- 1979年1月、年間7万8000ドルの扶養手当が認められ、ミックは正式な父親となる。
- 1984年2月29日、ミックは戸籍登録課に法廷申請を行い出生証明書が発行される。
- 1962年7月12日、ブルーズ・インコーポレイテッドがBBCのラジオ出演のため代役としてローリングストーンズが出演する。ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ブライアン・ジョーンズ、ディック・テイラー(bass)、イアンア・スチュワート、ミック・エイヴォリー(dr.)。その後、しばらく木曜日の出演が決まるが、オーナーのハロルド・ペンドルトンはジャズが好きだったため、ストーンズは彼からひどい態度をとられることがしばしばだった。
- 1971年3月26日、2つのテレビ・ショウを録画するために6年振りに出演。ハロルド・ペンドルトンと揉めたキースはギターを彼に振りかざす。
MUDDY WATERS "Rollin` Stones"
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- 1962年、ブライアン・ジョーンズのアイデアで、マディ・ウォーターズの"Rollin` Stones"からバンド名をTHE ROLLING STONESとする。
MICK JAGGER (Michel Philip Jagger)
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1943年7月26日生まれ[DARTFORD, KENT]
●父:ジョー・ジャガー(体育教師)
●母:エヴァ・ジャガー
●弟:クリス・ジャガー
1960年7月、LSEの奨学金を獲得する。
1960年10月、ダートフォード駅の車中でキース・リチャードと再開する。
【THE ROLLING STONES】
- 1962〜
- VOCAL, HARP, PIANO......
- 1963年デビューシングル録音前頃、やっと通学していたLSEを辞める決心をする。しかし、この段階でも逃げ道を残すように1年間休学できることを確認の上でだった。
- 1964年8月、スピード違反で有罪判決を受ける。
- 1965年9月20日、E・C・イーストン氏の後任としてローリング・ストーンズ・リミテッド社の社長に就任。
- 1966年マルセイユ、ステージでファンが投げた木の椅子が右目に当たり6針を縫う大怪我をおう。
- 1967年2月5日、『ニュース・オブ・ザ・ワールド』紙にミックが開いたというLSDパーティーの暴露記事がジャーガー談と一緒に掲載。しかし、それは、ブライアンのことだった。その夜、ミックはテレビのトークショーに出演し、『ニュース・オブ・ザ・ワールド』紙を名誉毀損で告訴することを発表。
- 1967年2月12日、レッドランズの手入れの際、ジャケットに入っていいた4錠のステナミナ覚醒剤(マリアンヌのものだった)所持で起訴されることになる。
- 1967年5月10日、チチェスター裁判所で行われた審問で無罪を主張。250ポンドで次の裁判まで釈放される。
- 1967年6月27日、チチェスター裁判所で有罪の評決が下る。ルイス刑務所に護送され1晩過ごす。翌朝7時に再びチチェスター裁判所に移り独房で過ごす。
- 1967年6月29日、再び被告席に連れ出され、「3ケ月」の罪刑を言い渡される。その夜ブリクストン刑務所のジャガーM・P・囚人7856番となる。
- 1967年6月30日4時30分、7000ポンドで保釈。
- 1967年7月31日、キースと共に高等法院に出廷。キースの無罪判決に対しミックは「有罪判決」を支持し刑を保護監察に減刑。
- 1968年3月17日、ヴェトナム団結キャンペーン主催デモに参加。パーク・レインからグロスヴェニュー広場までデモ行進する。
- 1968年11月22日、マリアンヌが出産予定日2ケ月で流産する。
- 1968年12月24日、エブァ・フェイスフル(マリアンヌの母)にバークシャーのアルドワースのコテージをプレゼントする。
- 1969年5月29日(or 28日)、チャイン・ウォークの自宅でミックとマリアンヌは麻薬捜査班から告発される。
- 1969年7月6日、ハイドパークでのブライアン追悼コンサートが終わった後、マーシャ・ハントと過ごしたミックは『ネッド・ケリー/太陽の果てに青春を』の撮影に入るため、アリアンヌを迎えに行きオーストラリアへ向かう。
- 1969年7月8日、大量の錠剤を飲み昏睡状態に入ったマリアンヌを発見。
- 1969年9月、『ネッド・ケリー/太陽の果てに青春を』の撮影終了。
- 1969年11月、アメリカ・ツアー中のミックのもとに、マリアンヌがマリオ・スキファーノ(映画監督)とローマに飛非行した情報が入る。
- 1969年12月、マーシャ・ハントとの関係を深める。
- 1969年12月24日、スキファーノとマリアンヌの住む家を訪れ、再びマリアンヌと和解する。
- 1970年1月、マーシャ・ハント妊娠。
- 1970年春、母親の住むアルドワースに戻ったマリアンヌに花や手紙を送り続けたが、自分のイメージを壊すため贅肉をつけたマリアンヌを見たとき完全に二人の関係は終わった。
- 1971年5月12日、サント・ロペの17世紀に建てられたセント・アンヌ・チャペルでビアンカ・ペレス・モレナ・ド・マシアスと挙式を上げる。
- 1971年7月30日、マスコミに対し、公式にビアンカの妊娠を認める。
- 1971年10月21日、ル・ド・ベルヴェデール病院でジェイド・シーナ・ジェズベルが産声をあげる。
- 1971年11月16日、ミック自らイギリス領事館に出生届けを提出。
- 1972年12月23日、ニカラグア西部大地震発生。ビアンカの母親の安否を気づかう。
- 1972年12月28日、ビアンカと一緒にニカラグアに飛ぶ。
- 1973年1月18日、ロサンゼルス・フォーラムでチェリティ・コンサートを行い、義援金を50万ドル阿集める。またミックのジャケットやキースのギターなどをオークションにかけ、計100万ドルをニカラグア政府管轄外の信託団体に管理をまかせる。
- 1973年5月、チャリティの件で合衆国の上院からゴールデン・キーを贈られる。
- 1974年12月12日、ミュンヘンでミック・テイラーの脱退を発表。
[付録:ミック・ジャガーを形容したセリフ]
●1960年代「タイヤみたいな溝をした唇をした下品な顔つきのシンガー」「内臓のような唇で歌う」「キング・オブ・ザ・シーン」「女性的であり男性的」
●1970年代「金持ちのロック・スター」「オカマのチンパンジー」「女王とならんで、イギリスが生んだ最高傑作のひとつ」(ミック)
MICK TAYLOR(Michael Taylor)
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1948年1月17日生まれ[WELWYN GARDEN CITY, HERTFORDSHIRE]
●父:ライオネル・テイラー(空港職員)
●母:
●姉妹:マリリン・テイラー
【THE ROLLING STONES】
- 1969〜1974年12月12日脱退
- GUITAR, BASS, PIANO, VOCALS......
- 1969年5月、ブライアンに代わるギターを探す中、ジョン・メイオールに声をかけたミックは、彼から若手ギタリスト『ミック・テイラー』を紹介される。
- 1969年5月30日、「ホンキー・トンク・ウィメン」を録音中のストーンズに呼ばれ、オリンピック・スタジオに出向きセッシォンを行う。事実上の代役候補のテストだった。
- 1969年7月5日、ハイドパークで行われたブライアン・ジョーンズ追悼コンサートで初演奏を披露する。
- 1974年10月、バンド脱退の意思をミックに電話で伝える。
- 1974年12月12日、ストーンズを正式に脱退。ジャック・ブルース・バンドに参加する。
●1975年7月7日、ジャック・ブルース・バンドを脱退する。ストーンズに再加入が噂される。
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