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ALLEN KLEIN
  • 1965年7月12日、エリック・イーストンに代わり、アンドルーが目をつけたアメリカ人のアレン・クライン(イギリス新興グループ数組のマネジメントを手がける公認会計士)がSTONESのマネージャーとなる。
  • アレン・クラインの最初の仕事、デッカとのレコード契約交渉で大金を引き出しSTONESを喜ばせる。しかし、実際はSTONESの財政ではなくクラインの懐が満たされただけだったことに気付くのはずっと先のことだった。
  • アレン・クラインはマリアンヌ・フェイスフルに気があったらしく、いくつものプレゼントを渡していたらしい。その中には喋る鳥もあったとか。
  • 1970年、ストーンズの契約を解除される。ストーンズはグループのマネジメントは自分たちで行うことを決定。
  • 1970年7月30日、ストーンズはアレン・クラインに対する訴訟手続きを開始。ミックとキースは1963年から69年までのあいだに発表した曲の版権をクラインに奪い取られる可能性があった。その後、2年間におよび法廷闘争が続く。
  • 1972年5月9日、結局ストーンズは示談に応じ、クラインとの問題に決着が出たことを発表。

ALTAMONT
  • 1969年12月6日、フリーコンサートを開催。会場はなかなか決まらず最終的にカリフォルニアのオルタモントという自動車レース場跡になる。会場の条件の悪さに加え、グレイドフル・レッドの勧めで会場整備にヘルス・エンジェルスにまかせたことによって緊迫した雰囲気が漂うコンサートとなる。50万人の観客が集まった会場ではトラブル、ハプニングが続出し18歳のメレディス・ハンターはストーンズが演奏中にヘルスエンジェルスによってナイフで刺殺される。
  • 1970年、オルタモントのコンサートのドキュメンタリー映画が『GIMME SHELTER』が公開。収益はチャリティーに寄付する。

ANDREW LOOG OLDHAM

●1944年1月29日生まれ。イギリス人の母親とドイツ系アメリカ人の父親の間に生まれる。
●16歳のときウェリングバリー・カレッジを退学になり、その後マリー・クワントのもとで働いたり、ポップシンガーを目指したりする。最終的にレスリー・フルーウィンという出版業者のPRに落ち着く。1963年4月、ブライアン・エプスタインはビートルズよりトニー・バロウに肩入れしていた彼を解雇する。



  • 1963年4月、ストーンズの評判を聞きつけ、エージェントのエリック・イーストンと一緒にリッチモンドのCRAWDADDYに出かける(当時、19才)。
    ※ジョルジオ・ゴメスキーから素晴しいバンドをクロウダディまで見にきて欲しいと連絡を受けた「レコード・ミラー」の編集者/ピーター・ジョーンズは、その演奏を目のあたりにした感動する。ストーンズの記事を書いた後、宣伝マン/アンドルーに連絡をしストーンズを1度見るようにと勧める。
  • 1963年5月、ストーンズと意気投合したオールダムはストーンズのマネジメント会社を設立。このとき、イアン・スチュワートは、まだオリジナルメンバーだった
  • ビートルズとの契約を取り逃がしたデッカのディック・ロウにストーンズを売り込み、シングルを作る契約をかわす。
  • 1963年5月、1時間5ポンドのレンタル料金で3時間、オリンピック・サウンドというスタジオで『カム・オン』を録音。しかし出来は最悪だった。デッカのOKが出ず、取り直しとなる。
  • 1963年夏、イアン・スチュワートはトゥィッケナムのイール・パイ・アイランドでロードマネージャになるように言い渡す。ついでリチャーズの名前から「s」を削除するよう指示する。
  • レコーディングに関してのアイデアは皆無だったが、PRにかけては天才的だった。ビートルズに相反するイメージで売って行けると気付いたアンドリューは、ファン(むしろ親)をたきつける宣伝コピーや会場を破壊に向かわせる興奮のきっかけをつくりだしていった。
  • 1963年、ジャガーとリチャードをメイプベリー・ロードの部屋に閉じ込め「曲を作る」よう命令し、『It Should Be You』ができ上がった。(故ジョージ・ビーンに売り込む)
  • 1967年9月14日、マネージャー解雇が発表される。『Beggars Banquet』のアルバムを最後にストーンズと縁を切る。1968年グループの株を100万ドルでクラインに売却。

ANITA PALLENBERG

●ローマ生まれ。
●19才のとき、ローマの映画監督の目にとまり映画出演の依頼をされるほど魅力的に成長していた。
●1963年、その頃付き合っていたイタリア人アーティストのマリオ・スキファーノ(後にミック・ジャガーと付き合っていたマリアンヌ・フェイスフルと逃飛行も体験する)とニューヨークへ行く。
●マリオと別れた後、カメラマンのもとで働くようになり、気付いたときはモデルになっていた。
●1965年、ヨーロッパへ戻り、モデルを続ける。


  • 1965年、ミュンヘンで行われたストーンズのコンサートの楽屋にもぐり込む。彼女を目にしたブライアンはすぐに気に入り、その夜一緒に過ごす。それをきっかけにストーンズとの長い付き合いが始まった。
  • ロンドンのコートフィールド・ロード1番地でブライアンとの生活が始まる。
  • 美しいアニタは、それだけではなくパワフルで、邪悪な面も兼ね備えていた。そのために、魅力は計り知れないものとして周りの人達を魅了した。
  • イエスマンの取り巻く中、ただ一人、ストーンズに向かって率直な意見を言うアニタは6人目のストーンズとして君臨した。ミック・ジャガーは、アニタを嫌う結婚したてのビアンカに「彼女には逆らうな。6人目のメンバーみたいなものだから」とたしなめたと言う。
  • 1967年初頭、ドイツ映画『A Degree of Murder』に出演。(ブライアン・ジョーンズがサウンドトラックの作曲に参加)
  • 1967年3月4日、アニタ、ブライアン、キース、運転手トム・キーロック等の一行は気晴しにモロッコへ向かう。途中のツーロンで喘息の発作に見回れたブライアンは病院に入り、他の一行はミック、マリアンヌと落ち合うことになっていたマラケシュへと向かう。ブライアンの監視の無くなったアニタとキースはバレンシアで1夜を過ごす。回復して一行のもとに戻ってきたブライアンはアニタとキースのただならぬ雰囲気に気付く。そのことへの腹いせか、モロッコ人の娼婦と一緒に乱交パーティに参加するようにアニタを攻める。このことが原因でキースはアニタをブライアンから奪い取ることを決意する。外出したブライアンを残し一行はマラケシュを去っていった。
  • 1967年、ロジェ・ヴァディム監督『バーバレラ』に出演。主演はジェーン・フォンダ。
  • 1969年8月10日、長男を出産。マーロン・ブランドにちなみマーロンと名付ける。
[付録:アニタを形容したセリフ]
●1960年代「エキゾチックで野心的でセクシーで頽廃的」「トラブルメーカー」


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