ディアは、エリオットの私室の扉の前に立っていた。立っているのがやっとだった。それでもここで逃げる訳にはいかない。
(私が・・・ここで逡巡している場合ではない・・・・)
 ディアは勇気を振り絞って、目の前の扉をノックした。

 窓辺に置かれた大きなベッドに、エリオットは半身を起きあがらせていた。ゆっくりとディアの方に顔を向ける。その所作は力無く、はかない。
「わざわざこのようなところにまで来ることはないのに。・・・すまない」
「いいえ、そんなことは。お加減はいかがですか」
「気分は悪くはない。ただ身体に力が入らないんだ・・・全身がしびれて・・・」
「そうですか・・・」
 会話が途切れた。何を話しかけていいのかわからない。言葉を継ごうとするのだが、喉まで出かかっては音にならずに消えていく。そんな沈黙がどれだけ続いたか。エリオットが口を開いた。

「ディア。随分昔のことになるが・・・森の湖で出会った時の事を覚えているか?」
 思いがけない話題にディアは内心驚いた。
「・・・・・ええ、覚えていますわ。本当に・・・随分昔のことですけれど」
 声が震えてしまうのを必死でこらえる。
「そうか。ディアはすっかり忘れているかと思っていた。・・あの時、祈りの滝の前で君は泣いていた」
 ディアは驚き、思わず顔を上げた。
「ご存知だったのですか・・・!そんなことはあの時一言もおっしゃらなかったのに」
「ああいう場面は苦手でな。慰めようにも言葉を持たない。気付かないふりをすることぐらいしかできないんだ、俺という人間は」
 そう言うと、彼は窓の外へ視線をやった。その眼差しはさしたる焦点を持たず、遠く思い出の中に漂っている。
「今でも鮮明に耳に残ってる、あの歌。本当に天使が歌っているのかと思ったんだ」
「・・・・・・・・・・」
 ディアは無言のままだった。エリオットの言葉によって、ディアもまたあの時のことを瞼の裏に昨日のことのように蘇らせていた。
(私のほうこそ、驚いた顔で茂みから勇んで飛び出してきたあなたのことを、神様が舞い降りてきたのかと思った、あの時・・・)
「ディア。確か今の季節は君の誕生月だった筈」
「え?ええ、そうですけれど?」
 エリオットの急な話題展開に、ディアは我に返った。と、同時、背後の扉をノックする音が聞こえた。

「ルヴァです。失礼します」
 唐突に扉が開かれ、そこには地の守護聖が沈痛な面もちで立っていた。
「ディア、先にいらしていたのですか。ご一緒しようと思っていたので、探してしまいましたよ」
 瞬時にディアの身体はこわばった。どの守護聖よりも穏やかなルヴァの声が、この上もなく恐ろしいものに、今は聞こえる。 「例の件は、もう伝えたのですか?」
「・・・・いいえ・・・・・」
 ディアの声は細く、ルヴァにも聞き取るのがやっとだった。そんな二人の様子を見て、エリオットは怪訝な表情で口を挟んだ。
「おいおい、ルヴァ、一体何のことだ?いきなり人の部屋にやってきて、そのような。見舞に来てくれたんじゃないのか?」
「エリオット。あなたに伝えなければならないことがあるのです」
 一時でも間を置けば、様々な思いが交錯して、きっと言えなくなる。ルヴァは一気に続けた。
「今日をもって、あなたは鋼の守護聖の任を解かれることとなりました」
 その言葉に、ディアは気を失いそうになった。本来なら、女王補佐官たる彼女が言うべき台詞であった。
「何・・・・・だ・・・と?」
 エリオットは絶句する。
「あなたのサクリアは、既にその力を失っています。・・・それはあなた自身わかっていることだとは思いますが・・・」
「今日を限りと、この聖地から出て行けというのかっ!?」
 声を荒げるエリオット。ディアもルヴァも、この優しげな守護聖がこんな風に大声を上げ激昂する姿を初めて目の当たりにした。
「あなたの身体は、もうこの聖地の環境に耐えられない。これ以上ここにいては、生命に関わることになるかもしれないのです」
 地の守護聖は静かに言った。その声色は決して冷たいものではなかったが、エリオットにとっては、そんなことは意味がない。ルヴァの口から告げられる事実の前に、彼は取り乱した。
「嘘だと・・・・嘘だと言ってくれ、ルヴァ・・・・ディア!」
 ディアは、身体が石にでもなったかのような感覚に襲われた。指一本も動かせない。こんな、このような結末はあまりにむごい。
 ふと、ルヴァの背後に人の気配が感じられた。この部屋の扉は、ルヴァが来た時のまま開け放たれていたのだった。ディアとエリオットは、ほぼ同時にその気配に振り向いた。その気配の主は、エリオットに代わって鋼のサクリアを授けられた少年、ゼフェルだった。ルヴァと共にここに来ていたのだ。彼は無表情にそこに立ち尽くしていた。当然エリオットはゼフェルに面識が無かったが、一瞬にしてすべての状況を理解する。その少年の姿を見たとたん、彼の激情がほとばしった。
「お前さえっ・・・・お前さえ現れなければっ!」
 身体さえ自由になれば、きっとその少年に飛びかかっていただろう程の勢いだった。
「エリオット!!」
 ルヴァとディアはほぼ同時に叫んだ。そしてディアはとっさにエリオットに駆け寄り、ベッドから乗り出す彼の身体を、身を呈して押さえつけた。そして再び叫んだ。
「ルヴァ、ゼフェルを部屋の外に!早くっ!ここは私がっ・・・・!!!」
 ルヴァはディアの指示通りゼフェルを部屋の外に出し、扉を閉じた。
「エリオット、エリオット・・・!お願いですから、落ちついて下さい。お願いですから」
 エリオットは息を荒げ、なおも全身の力を振り絞って抵抗する。しかし、エリオットの身体は、女のディアの力にさえもそう長くはあらがえなかった。
 しばらくして、ようやくエリオットも抵抗をやめた。
 そして憎々しげに言った。
「ディア・・・・お前・・・呑気に思い出話をする俺をみて、心中憐れんでいたんだな!?そうなんだろう?」
「いいえ・・いいえ、そんなことはありません!」
「嘘だ!」
 エリオットは、枕辺に置いてあった小箱をとっさに手に取り、ディアに向かって投げつけた。それは激しい音をたてて彼女の背後の壁に当たり、床に転げ落ちた。
 一瞬沈黙が訪れた。ディアはそっとかがみ込み、投げられた物を拾い上げた。それは・・・美しい細工のオルゴールだった。
 ルヴァが口を開く。
「・・・この後、女王陛下より、正式な辞令があります。あなたは床を離れられないでしょうから会っておきたい人物などがいれば、こちらに直接来るように計らいます。どなたか・・・」
「もういい、ルヴァ。会いたい者などいない。ルヴァもディアも出ていってくれっ!」
 はき捨てるように叫び、それきりエリオットは誰とも目を合わさなかった。ルヴァもディアも、それ以上の事は何も出来ず、無言で部屋を後にした。
 結局、この鋼の守護聖とは、これが最後の対面となった。


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