剣道。礼節を尊び信義を重んじ誠を尽くして常に自己の修養に努め……。それは剣の理法の修練による人間形成の道。
「…そりゃあね、今だって嫌いじゃないよ。懐かしい、道場のあの何とも言えない緊張のある空気とかさ」
「ええ。思い出しますね。稽古前どれだけ騒がしくしていても、ひとたびあの場所に正座をして…背筋を伸ばし黙祷をするだけで驚くほど心が平静になっていく。幼心に不思議に心地よく感じたものです」
リュミエールとオリヴィエはしばし幼き頃の自分達に思いを馳せた。その道場開場以来の逸材として各大会の上位に年長者にまじり名を連ねていた幼少時。「面狙いのオスカー」「小手胴のオリヴィエ」「突きのリュミエール」の“三羽烏”と言えば界隈で知らぬ者はいなかった。…が、それほどの腕前でありながら、三人ともがあっさり道場をやめてしまったことのほうが今や伝説であった。
「早朝寒稽古だって真面目に行ったよね、まだ朝も明けないうちからさぁ、3人で待ち合わせして!」
「今のオスカーとオリヴィエからは想像もつきませんね。…まああなたがたは稽古後ふるまわれるお汁粉が目当てだったわけですが」
「リュミちゃんが目的違ったとは言わせないよ?」
「ふふ、私はどちらかといえば作るほうに興味があったのですけれどね」
冬の間行われる早朝寒稽古。その道場恒例となっている稽古後の“お汁粉”は、リュミエールの絶妙な甘味バランスがご近所でも評判のシロモノであった。
「あれは隠し味が肝要なのですよ、塩の加減が。口で言うのは簡単ですが…」
「あー、わかったわかった!リュミちゃんのアレは確かに美味しかった!!……だけど」
オリヴィエは声を一段大きくして言った。
「大体アイツが真っ先に道場やめたんじゃない、忘れたっての?」
「本当に。未だに変わっていませんが…オスカーは気短すぎです。たった一度、判定で相手に負けたからといって…」
「まーねー…でもあのスポーツったら審判の判断絶対だからねぇ…わかってない審判のシロウト判断に我慢ならなかったんでしょ。気持ちはわかるけど」
「あのころ、オスカーは他道場からある種、目の敵にされていましたから。上段構えで面しか狙わない小学生など生意気千万だと」
「あぁら、他人事みたいに。リュミちゃんだってさぁ、『突き』は子どもには禁じ手だっていうのにソレが得意ってさ〜」
「私は相手が高校生以上だった場合の試合でしか…。突き、はリーチの短い子どもにとっては不利な技。ハンディはあったはずです」
「だから、それが生意気だっつーの!」
「そういうオリヴィエだって…小手を打つと見せかけて、それを避けるに空いた胴を狙う姑息な小手胴」
「別にズルじゃないわよ!正当な技じゃないさ!!」
「ズルとは言っていません、ズルとは…ですが打った後、これみよがしに脇を抜けて…あれでは相手の面目丸つぶれ」
胴というのは一見地味に見えて、擬音も竹刀アクションも派手な実はお得な技なのであった。
「相手の面目とか気にしてやるスポーツがどこにあるのよ!すべては美しさ、これよ!」
「…そうでしょうか…」
「そうよ〜、だからヤメたんだもん」
「美しくないから?」
やめた理由をきちんときくのは初めてだったリュミエールは興味津々に聞いた。
「だってさぁ、アレ…手だって足だって皮むけて痛いし、治れば治ったで固くなっちゃってさぁ、最悪。それよりなにより……くっさいんだもん!!!道着はいいよ、洗えるから!防具!もー汗がしみて日に日に臭ってくるもんを、被るってアレどうなのよ!あああああ、思い出しただけでいや〜〜〜〜!」
オリヴィエは手で顔を覆った。その指先、長い爪が美しく整えられているのを見て、リュミエールは思った。今では小手もつけられまい。
「…そんな理由だったのですか…」
「ナニよ〜じゃあアンタはなんでヤメたのよ」
「私は…元々あまり強く意思があって始めたことではなかったですし…道場は近所でしたし、精神の鍛錬のためと親に言われて…あなた方も通うと言い出したし…」
子どもの習い事というのは、偶然的に整う環境と、局地的なブームによってなりたってもいるものである。
「ですがやはり竹刀とはいえ相手を剣で打ちのめす、そのこと自体にかなりの苦痛が」
「………そうね、アンタちょうどあの時、四人目の病院送り、出したんだっけね……」
その、まさに相手の息の根を止める一発必中の突き、既に相手を申し出るのはオスカーとオリヴィエくらいしかいなかったので、この二人がやめてしまっては続けようもなかった、というのが真実であった。
まーそんなワケで竹刀などとうに置いてしまった三人なのである。
「なんで今更、剣道で勝負つけるなんて。ナニ考えてんのよ、オスカーは!」
「さあ…久々に手合わせしたくなったとか…?フェンシングは今でも授業の選択科目にありますから、珍しいことがしたくなったのかも」
「そんな横暴な!…ワタシはぜったい反対!とにかく、抗議よ!!」
オリヴィエは部屋を勢いよく出て行った。
《続く》