二時限目、午前10時20分。
数学の授業は、そこに居合わせた者すべての胃をキリキリと締め上げていた。
「オリヴィエ君・・・でしたね、そこは今期の範囲ではありませんよ」
「無限級数には変わり無いんじゃないですか?ティムカ先生」
教育実習生のティムカは、初老の本数学教員に目をやったが、彼が仕方ないといった感じで頷いたのを見て「わかりました」と黒板に向かった。チョークの音が止むと同時に繰り出されるオリヴィエの難くせ・・・もとい、質問。この一騎討ちのような授業は50分近く続いていた。
2人はもちろん初対面。
どーしたって言うんだ?オリヴィエ何かあったのか?と最初はオスカーやリュミエールにこそこそと訊ねていたクラスメイトも、2人が他人のふりを決め込んでいるのを見て、押し黙った。
オリヴィエの質問は何分野にもまたがっていたが、最悪なことに教育実習生ティムカは的確に取りこぼすこと無く答え、見事に対応するからたまらない。クラスメイトはオリヴィエが一発逆転できる質問を繰り出すことができるか、または終業のベルをひたすら待つかしかなかったのだ。それほどこの数学の教育実習生は肝っ玉が座っていたのである。
「つまり、この式では解けないわけです。オリヴィエ君、よろしいですか?」
「先生、解ける証明は解いてみせればできるんでしょうけど、解けないことをどうやって証明するんですか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
おお・・・始めての長い沈黙にざわつく教室。
「・・・確かに、そうです。発見されていない、もしくは何かが足りないだけかもしれません」
かなりセコい手だがオリヴィエ奇跡のアッパーか?・・・と皆の視線が2人に集中したその時、オリヴィエの顔が尚一層険しくなった。ティムカが彼に微笑んだのだ。
「オリヴィエ君、こういう話をご存知ですか?3.14159265358979・・・円周率についてです。僕は少しロマンチストなところがあって、笑われてしまうかもしれませんが・・・」
オリヴィエは何も言わずにティムカを見ている。
「この円周率は未知のメッセージではないか?という説があるんです。1は初めの4桁に2度登場しますが、計算を続けていけばどの数字も平均して現れます。しかし、あるところでひとつの数字だけ続いたり、0と1だけが並ぶ箇所があるかもしれない。誰もが知っているπの中に偶然ではあり得ないもの、まったくの無作為では起こり得ない”何か”があるかもしれないんです」
あどけなさを残したティムカの黒い瞳は、美しく澄んでいた。
「つまり僕らが学んで知っていると思っていることは、ほんの一握りにすぎません。知らないことの方が多いんです。無限に未開拓な領域が広がっています。面白いですね」
待ちに待った終業のベルが鳴る。
オスカーとリュミエールは同時にオリヴィエの席に目を向けたが、そこに彼の姿は無かった。
《続く》