パリに着いてからもう一週間くらいは経っただろうか。記憶の底からいまいましいフランス語の文法を引きずり出すのも、もう苦労なくできる。俺はもとより順応性が高い。どこで暮らそうが面倒なのはほんの最初の数日だけだ。
この街には二年近く前にも来ている。俺にとっては昨日のことみたいなもので、実際その時と違うのは、ロワイヤル通りにあったアイスクリーム・パーラーがレストランになっていたことくらいだった。他にもいろいろ変わったのかもしれないが、ただの旅行者だった俺にわかる違いはそれだけだ。
アイスクリーム屋がレストランに変わっても、新し物好きのパリの人間達はむしろ歓迎しただろうし、その店にいた店員のことなんか誰ももう覚えちゃいないだろう。悲しむ人間がいるとすれば思い当たるのはひとりしかいず、そいつにしたってただの通りすがりの旅人だった。このニュースをヤツが知る頃には、後釜のレストランは世界中の賞賛を浴びる名店になっているかもしれない。
とにかく。誰の上にも時間は確実に平等に過ぎていく。なら、いちいち云々することに何の意味もない。この一瞬にも店や人は静かに入れ替わって、そうやって変わっていくことは、結果何も変わらないのと同義だ。店がなくなってもあのアイスクリーム・サーバーはどこか違う店でまた芸術的なサーヴを披露して女の子達の嬌声を浴びているんだろうし、その腕前に惚れてパリにいる間中店に通い詰めた奇妙な旅の男も、今は本来いるべき場所で自分の暮らしを満喫しているだろう。
そして俺は誰もいなくなったパリで、今度はホテルではなくきちんとした食事の付く週60フランのアパートに腰をおちつけた。持ってきたのは当面困らないだけの金と、弾けもしない古ぼけたバイオリン。それ以外はまっさらの新生活だ。
下宿の食事はそれなりに美味い、部屋の窓からはあのぴかぴかの鉄塔がよく見える。新生活は気楽で快適だ。
そんな俺に面白い話などひとつもない。とりあえずその二年前の…クリスマスの話でもしようか。
◇■◇
幾度目かは忘れてしまった。三度目だか四度目だか、とにかく何回目かの万国博覧会が終わって、少し後のことだ。このころはまるでバカのひとつ覚えといったように、ヨーロッパでは各国競い合って万博を開催していたし、中でもこのパリなどは10年おきにバカ騒ぎしていたものだから、いちいち何がいつだったかなど気に留めておくのも無駄だった。
毎年、この時期になると旅に出るのが常だった。冬の寒さはロンドンであろうがパリであろうが大して変わりないが、この時期…クリスマスシーズンだけは別だ。家族のないパブリックスクールの生徒が、ひとりまたひとりと故郷へ帰るクラスメイトを見送る気分、といったら理解してもらえるだろうか。
たとえ同じ境遇の奴等が他にも数人残っていて、一緒に食堂で七面鳥を割り勘で食おうと言って大騒ぎの楽しい夜になろうと、心ではその仲間には数えられたくないと思っているというのが誰だって本音だ。そうわかっていながら互いの傷を舐めあうことの、何とも言えない情けなさ。まあ、俺には幸運にも、実際そんな経験は無いのだが。
そんなわけでその年も、ロンドンが赤と緑に埋めつくされる頃になると少し長めのクリスマス休暇をとることにした。ただでもそういう理由での旅だから、地味な人っ気の無い土地ではよけい気が滅入る。それだけでパリを選んで、他に深い意味はなかった。
パリについて、その足で市に立ち寄った。
朝っぱらから大した盛況だった。軒を連ねる店、行き交う荷車、馬車、その周囲をあらゆる種類の人々が一緒くたにひしめき合う。犬もいれば鳥もいる、金持ちもいれば乞食もいた。あちらこちらから呼び込みの声や交渉の談義がせわしない。物盗りも横行しているんだろう、ばたばたと何かを追って走る男達、響く怒号…。
市場は好きだ。活気ある喧噪に身を置くと、くさった気分も自然と上向きになる。
俺はマントから手を伸ばし、目の前の店先の、雑然と無秩序に並べられた品のひとつを手にとって眺めた。安いまがい物だが、なかなか凝った細工の施してある小さな箱。指に触れた金細工が心地よく冷たかった。
「旦那、いい男だねぇ。恋人にノエルのプレゼントですかい?」
店…といっても柱に布がかけてあるだけのテントであるが、その主が調子よく声をかけてくる。
「舐めてもらっちゃ困るな、こんな小箱じゃ彼女の宝石は到底入りきらない」
俺は軽口で返して、手に取った箱をすぐに元の位置に戻した。
「はは、こいつは失礼。それじゃあ、こっちのなんかどうですかい?いや、奥に…」
店主は捕まえた客を逃すまいと様々な品を手際よく目の前に用意する。俺はそのどれもを適当に断った。そろそろ面倒になって立ち去ろうとした時、店主が言った。
「あれ、旦那…海の向こうから来たんだね、英国の人だ」
俺の言葉に混じる些細な訛に気づいたらしい。
「オヤジ、耳がいいな」
「いやぁただの市場の物売りにお褒めはいらんです。でも当たってました?こういう商売してるとね、いろんな国の方と喋りますからね」
店主は自慢げに不細工なだんご鼻を指でこすった。
「でもフランス語お上手だ、ちょっと聞きには気づかない」
「パリの輩は母国語を喋らん奴を相手にしないと聞いたからな」
「はっは、そんなこときっぱり言える良い身分になりたいねぇ」
店主が笑うと、真っ白い息が煙草の煙のように現れて消えた。
「はぁあ〜寒い寒い。旦那はご旅行で?」
そんなものだ、とだけ俺は答えた。
「どうせなら万博の時に来たら良かったのに。本当に盛大だった、アレが建ったのもその時だしね」
店主の太く短い指が道の向こうに霞んでみえる鉄塔を指さす。朝の光に照り映えて、きらめいて立つ鉄の塔。俺と店主はパリ近年ご自慢の新名所に視線をやった。
「旦那はもう登ってみましたかい?エッフェル塔」
「いや、まだだ。…オヤジは?」
「はは、実は私もでさ。けっこうな金取られるんでね、私らみたいなモンには無理でさ。ずっとこの場所でニョキニョキあの塔が生えていくのを見てただけだ」
「登って見る景色よりそっちのほうがずっと良さそうだぜ?塔は100年だって残る、だが建つ間のことはその時その場にいた奴しか知りえないトピックスだ」
建物はあっという間に風景に馴染む。
「…ビッグベンが出来た時もそうだったよ。そこに何も無かったことを俺はもう忘れた。そっちの景色のがよほど長いつき合いだったのに」
独り言に近い俺の言葉に、耳ざといオヤジは聞きつけて問うた。
「へえ、英国にも出来たばっかりのああいうのがあるんですかい?」
「…本当だとしたら、随分なお歳ということになりますね」
耳ざとい奴は他にもいたらしい。不意に背後から会話に割り込む声が挙がった。俺は振り返った。つば広の黒い帽子を目深に被った細身の男が微笑んでこちらを見ている。男はきょとんとしている店主に向かって続けた。
「失礼。あまりにあなたがすんなり冗談を信じているものだから、つい」
「冗談?嘘なんですかい?」
帽子男は今度は俺を向いて微笑んだ。
「確かロンドンのあの時計塔が建ったのは30年以上も前。口振りのそれとはいささか…」
そういって男は俺の姿を見る。
「…そっちこそ若いのによくご存知だ」
俺はそうそうに観念して、肩をすくめて言った。
「別にオヤジをからかうつもりはなかったんだが。気を悪くしたならすまないな」
「いやいや、良いんでさぁ、またひとつ利口になった。…だが、そうさねえ…このままってのもしゃくだ、詫びの代わりにひとつ何か買ってっちゃくれませんかね?」
「はは、商売上手だな。いいだろう」
俺はそのバイタリティに賛辞を贈って、積み重なるように置かれたがらくたをざっと見渡した。
ふと、目が留まる。さっきは気づかなかった。売り物の山の奥にひっそりと、まるで身を隠すように置かれた黒い変わった形の鞄のようなものがある。
バイオリンのケースだった。
「それ、いくらだ?」
「へ?」
店主が俺の指先を辿る。彼は怪訝な顔をしながら、それでもそれを品の山からかき分けて手にとった。
「えーと、なんだこれは…楽器?いやぁ私もね、時々わかんなくなるんでさ、自分の店に何があるのかね…これはどこで仕入れたんだっけなぁ?」
そう呟きながら店主がケースの蓋を開ける。店主と俺と通りすがりの帽子男は、同時に中をのぞき込んだ。
現れたみすぼらしい姿に、帽子の男が憐れみのため息をつく。
「これは…あちこち傷んでいるし、埃だらけで…ずいぶん放っておかれていたようですね」
「何かの家具とかと一緒に紛れてたんだな。本当にこれがいいんですかい、旦那?」
「ああ」
どうせ欲しいものなどはなから無いのだ。何だっていい。今から改めて別のものを物色するほうが俺にとっては面倒だった。
「私ぁこういうもんは専門外でねぇ、うーん…いくらにしたもんかな」
店主は腕組みをして考え込んだ。
手持ちぶさたな俺は、再びエッフェル塔を見やった。
「…オヤジ、あの塔に登るのにいくらいるんだ?」
「へ?…てっぺんまでなら5フランとかって聞きやしたけど」
「じゃあ、5フランにしよう」
俺はさっさとポケットから金を出し、面食らう店主に有無を言わせずそれを渡した。
「その金で明日にでも高見の見物するがいいさ」
俺は店主に別れを告げて、その場を後にした。手には妙な縁で連れとなったバイオリンケース。間抜けといえば間抜けな姿だ。
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