“妙な縁”はそれで終わらなかった。
「あの、すいません…」
声を無視して、俺の足はなおも歩幅を広くする。
「あの…」
「………」
しつこい。俺はやっきになって人の行き交う間を縫って、通りを進んだ。
「あの…ちょっと…くらい待ってくれても…」
「ええい!何だ!!…うっ」
急に俺が振り返ったので、ちょうど横を走りすぎようとした子どもが勢い込んでぶち当たった。
「大丈夫ですか?」
その声は俺ではなく、道ばたに吹っ飛んだ見すぼらしい子どもにまず向けられた。助け起こされたその子どもは男に礼も言わずに走り去った。
「ったく、どこの街でもガキは失礼だ」
「…あなたも。注意しないと怪我をしますよ」
失礼なのはガキだけじゃなかった。誰のせいだと思っている。お前がしつこく追いすがってきたからじゃないか。
「でもようやっと追いつきました、随分足がお早いので」
「一体俺に何の用だ」
「先ほどは…私がさしでがましく口をはさんだせいで、余計な散財をさせてしまったとが申し訳なくて。…すみませんでした」
たったそれだけ言いたくて来たのか。
「5フラン程度で散財とは大袈裟だ」
「それでもそのバイオリンには5フランの価値も無いはず。ならば散財です」
「価値?」
俺は笑った。
「価値など俺が決める。あんたには関係の無いことだ」
「…ですが…それでは…」
自分の気持ちが収まらないとでも言わんばかりに、顔を沈ませる。俺は語調を強くした。
「自分の問題は自分で解決しろ。俺がいくらで何を買おうと俺だけの問題で、それを他人がどう思うかなんぞ知らん。とりあえず俺は気にしてない。以上だ」
「………待って!」
そう言い置いて行こうとする俺に男はなおも声をかけた。
「もしお時間があるならお茶でもご一緒しませんか」
はぁん、そういうことか。
やっと合点がいった。おのぼりさん狙いのたかり、だ。市場で適当な懐具合の標的を探していたに違いない。
「悪いが他をあたれ」
食いものにされるつもりはなかった。
「お前のような下衆なたかりでも、案内を必要とする人間はいるだろう、そっちへ行ってやれ。悪いが俺は見当違いだ、確かにこの土地の人間じゃないが、パリは別に初めてじゃないんだ」
俺はまくしたて、男を置いて再び歩き出した。
「ミスター」
「未だ何かあるのかっ!」
「いえ、パリは一文無しでは何もできませんよ、昔も今もね」
帽子男は悠然と微笑んでから、俺の手に何かを渡した。それは俺の財布だった。 「……!……」
「では良い旅を」
男は長いコートのすそを翻し俺の横をすり抜けた。俺が振り返ると、その後ろ姿は今まさに雑踏の中を消えて行こうとしていた。
ちょっと待て。
「待て待て待て待て!帽子男!」
◇■◇
確かに引き留めたのは俺の方だ。
「…財布の件は礼を言う。たかりだなんだと罵ったことも詫びよう。だがだからといって…」
なんで野郎と2人でよりにもよってこの寒いのにアイスクリーム・パーラーなんかで向かい合ってるんだ?
「お嫌いですか?アイスクリーム」
「いや、嫌いじゃないが…」
「なら良かった!ここのお店、人気なんですよ。私なんか通い詰めです。それはもう芸術的なサーブを見せる店員さんがいて…今日はお休みみたいですね、残念です」
男はそう言って、これ以上もなく嬉しそうにアイスクリームを口へ運んだ。
相手の、手を見てしまう癖がある。手を見ればその持ち主の大抵のことがわかる、というのが俺の持論だった。
その男は、少し不思議な印象の手をしていた。
スプーンを扱う指は、女のように細く長い。動きは優雅で、さりげない品と知性を感じさせた。だが手指の動きに無駄がなく落ち着きがある。要するにブルジョワ特有の怠惰な印象は無いということで、その手にはどこか独特の緊張があった。
“誇り”を持つ手だ。自信とプライドを知っている。こんな手をした男は何者だろう。仕事は何をしているんだろう。
もう帽子男と称するわけにはいかない、すでに帽子は男の横の空席に鎮座している。どこか気になるのは、この男が一風変わった…青みがかった銀髪をしているからかもしれない。印象的な髪の色だった。
「あー…えっと」
「ああ、まだお互い名乗ってもいませんでしたね。私はデフォーといいます、リュミエール・デフォー」
「俺はオスカー・ヘイワーズだ。まあ…よろしく、デフォーさん」
「ああ、名前で呼んでかまいませんよ?見たところ歳も近いようだし」
確かに、見たところは近い。
「俺のほうは名前で呼ばれるのは好きじゃないんだ」
「なるほど、英国式というわけですね?ホームズとワトソンもそうですしね。彼ら親友同士だというのに…所詮、呼び名などどうでもいいということ…では私も習いましょう、ヘイワーズさん」
俺達はロワイヤル通りに面した窓際のテーブルで、アイスクリームをはさんで自己紹介をした。今思えばかなり間抜けな会話だが、呼び方が決まったところでどうせその場限り。それが必要になる場面のことなど、その時の俺はあまり想像もしなかった。
店の窓ガラス一枚を隔てて人が行き交う。冬の一日は短い、誰もがすでに動きだしている。だが目の前の男はまるで自分の部屋でくつろぐように、ゆったりとアイスクリームを舐め、コーヒーを飲み、窓の外を眺めたりしていた。
なかなか対象としては興味深い男だったが、言うことときたらアイスクリームだなんだとわけがわからなすぎる。大体何で俺を追ってきたのかさえ、未だ聞いていなかった。市場での一件を詫びるなんて理由だけじゃないことは、誰にでもわかることだった。
「私は別に誰彼となくテーブルをともにしたいというわけではありません。ただ、あなたとは少しお話がしてみたいと思ったもので」
「何も面白いことなどないぜ。このとおり、愛想笑いのひとつもしない」
「ふふ、愛想笑いなど一フランも出せば上等のが手に入りますよ、この街では。そんなものに興味はない」
男は足下に視線をやり、唐突に話題を切り出した。
「このバイオリンはどなたかへのプレゼントとして?」
「…どうしてそう思うんだ?」
「失礼ながら、あなたはバイオリンを弾く手をしていないので」
向こうも同じく俺の手に着目していたとは偶然だ。しかも当たっている。
「驚いたな、そのとおりだ。俺は弾けない、もっといえばバイオリンなんか手にしたのも初めてさ。でもだからって、こんなボロじゃ人にやるわけにもいかないだろう」
「ならばなぜ…」
「また5フランか?よほど金の話が好きと見えるな」
いえそういうわけでは、と男は少し恥じ入ったように口ごもる。
「そうだな、たとえば」
俺は壁のメニューを眺めて、続けた。
「この店の、ごく当たり前の朝食が2フラン。ロンドンでなら卵抜きで1ペニー…要は半額で食える。だが、卵もついてる、店もちょっとばかり小ぎれいで気取ってる、だから倍でも俺はそこに疑問は持たない。…ものの価値ってのは、そうやって自分で判断するもんだろう?」
「理路整然、ですね」
「俺はあんたが思うほど貧乏人じゃない。払ってもいいと思ったから払った、それだけだ」
「別に必要でもない、自分で弾けもしないバイオリンのどこにそう思わせるものが?」
「さあ。俺にもわからん。ただ…」
「ただ?」
「バイオリンってやつを間近で見たのは初めてだが、思いがけず美しい姿をしてると思った。…まるで気の強い上等な女のような。強いて言えば、その感動に5フラン」
「気の利いたことをおっしゃる。十分に面白い方ですよ」
男はようやっと納得いったというように微笑んだ。
「反対に俺からも質問だ。あんたはどうやらこうした類に詳しいようだから…」
「私ごときでお役に立てれば」
「サラサーテってのは…プレイヤーか?」
「ええ、才能ある、とても有名な。作曲も自身でしますよ。皆、美しい曲です」
「ふぅん。その演奏を聴けるっていうのは栄誉なことなんだろうな」
「それはもう!」
ごめんなさいね。イブはセントジェームスにサラサーテを聴きにいくの。
「…なら仕方ないか」
「何か?」
「いや、こっちの話だ」
男は特に気にしないといったふうに、最後の一口をたいらげた。
「…で、ヘイワーズさん。アイスクリーム、そのままだとどんどん溶けてしまいますけど?」
「あ…忘れてた…」
せっかくの評判のアイスクリームとやらは、すでに半分以上が液体に変わっていた。
「これじゃあ、食っても美味くないな」
「まあ、お待ちなさい。私が良いことをお教えしましょう…私の言う通りしてみてください。まず。溶けたアイスクリームを一匙」
何やら男の力強い口調に気圧されて、俺は言われるままに口に運んだ。
「そうしてから、コーヒーを一口。含む程度」
含む程度。
「それから今度はアイスクリームを二匙。今度は少し多めに。量が肝心です。それからコーヒーをまた一口、いや二口のほうがいいかもしれない」
そんな風に不規則なリズムを幾度か繰り返し…正しくは“繰り返すことを強要され”てから、男は俺に言った。
「そうやって食べると不思議な味がしませんか?アイスクリームが溶けてしまうという不幸に沈んだ心も、たちまち浮き浮きと楽しくなる…ちょっとした魔法です」
とにかく、つかみどころのない男だった。その魔法の真偽はともかく、魔法使いってのはこんなのかもしれないと本気で思った。
◇■◇
それからというもの、俺はこの男となんでか度々一緒に行動するはめになった。なつかれた、というのが一番正しい言い方だろう。まあ俺としても短い旅先でのことだし、食事時の話し相手くらいはいてもいいかと、さして気にも留めずにいた。お互い一時の旅の友、だ。デフォーもまた、旅行者だった。
「ブルターニュのレンヌという小さな村に住んでいます。貧しい村ですが、こぢんまりと美しいところです。今回は日頃お世話になっている教会の用事でパリに。いわゆるお使いですね。本当なら神父が来るはずだったんですが、身体の調子が思わしくなかったので」
「…世話になってる、ってことはその村の生まれじゃないってことか?」
「ええ。生まれは別の場所です。身よりもないし、あちこちを渡って…今はその村に」
「へえ、偶然だ。俺も似たような境遇なんだ。ここしばらくはずっとロンドンだが生まれは違うし、家族も無いんだ。気楽な独り身さ。おかげでこうして好きな時に旅にも行ける」
「いいですね。でもお仕事のほうは?それとも学生?…そうは見えないけれど」
「そう見えないなら言うなよ。学生じゃないさ、だがわりに自由がきく…というか自由がきくような仕事を選んでるんだ。きっちり時間が決まってるようなのは向かない性格でね」
「ちなみに何をなさってるんですか?」
「今は…」
俺が言いかけた時、テーブルの横を過ぎようとした男が立ち止まった。
「あれえ?アンタ…いつも来てくれてる人じゃない?」
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