荒海に投げ出された漂流者のよう、とは我ながら言い得て妙とオスカーは思った。
闇夜の海のあまりの暗さに互いを見つけられずもがいているような、二人。あからさまな欲望に支配されている風で、その実二人の間にあるものは得体の知れないものに対する不安だった。
それを無理に払拭しようと互いを求める。耳ではなく肌を通して鼓動は伝わってくる。重ねられる唇には柔らかな弾力がある。それらは何ひとつ隔てるもののない距離にある肉体の存在を確実に語っているのに、なぜか一番思考と遠いところにあるはずのその感覚をひとつひとつ頭で反芻している自分がいた。
とらえどころがない。そんな風に思うのは初めてだった。
アディールに、はっきりとした恋愛感情を意識した訳ではなかった。そんなことを確認するより先に自分をつき動かすものの言いなりになりたかったのだ。それが単純な肉欲を所以とするなら、こんな不可解な自分に苛立ちはしない。いつまでもはっきりしないこの茫洋としたものの答を探すために、自分は今こうしている。しかしよけいにわからなくなる。今までこんなことはなかった。
それまでのオスカーは何より肉体を信じていたのだ。この身に流れる血脈以上の生の証があるだろうか。腕の中の相手にも同じものがあると感じとること以上の愛の証があるだろうか。
プラトニックラブなんかくそ食らえだ。見つめ合って満足すると言い張るならそうしていればいい。手の届かぬ距離に身を置けば傷つくこともないと、無為な時間を浪費していればいい。壊れ物だからと触れず眺めて満悦の笑みを浮かべる趣味は自分にはない。肉体を伴わない愛など、他愛ない恋愛小説の一行と何の違いがある。
その確固たる主義が簡単に崩れる。聞こえる息づかいの主によって。肉体を感じても、互いを求める熱い血流は感じても、そこに充足が無いのだ。確実に愛はあった。俺はこの腕の中の女を確実に愛しいと思っている。だからこそわからないのだ、今のこの状態が。
愛があって、共にいて、何故充足感だけが無い。本来ならそれは綺麗に輪となって繋がるはずだ。行くべき道の先を照らすはずだ。なのに何故俺はいつまでも真っ暗な海に投げ出されたまま、不安に晒されているんだ?
彼女の顔を見る。時折開けられる瞼に垣間見える瞳。状況と結果のあまりの乖離に惑う瞳。オスカーは自分と同じ感情をその緑に読みとっていた。彼女にとっては長い間の片恋の成就のはずだった。おそらく自分よりも不可解は根深いだろう。
これだけの近くにあって、何よりも遠く感じられる。
二人の手のひらは立体の面の上を幾度となくなぞる。それを信じられないとでも言うように、執拗に。あと一度くり返せば見知った場所にたどり着けるとでも言うように、諦め悪く。
永遠にも刹那にも感じられる歪んだ時間の中、二人は果てしのない旅に出て帰れなくなっていた。
自分はいつのまにか眠ってしまっていたらしい。ふとオスカーが伸ばした手の先には、薄い敷布の感触しかなかった。
一瞬で覚醒する。しかしすぐに部屋の中にもう一人の影の気配を感じ、無意識に安堵の溜息が彼の口から洩れた。
そっと半身を起こし様子を伺う。アディールは部屋の温度に対して少々薄すぎる夜着に身を包んで、彼に背を向け、窓辺に置いた椅子にもたれていた。月明かりに照らされた横顔が空を仰いでいる。侵しがたい静寂と、完全な均衡。声をかけずにいつまでもその横顔を眺めていたいとオスカーは思った。
彼女の姿ごしに見える夜空には月星が音もなく瞬いている。言葉通りの、嵐の後の静けさ。驚くほど彼は平静であった。あの混乱はどこへ消えたのだ。たった今の出来事だったはずだ。眠っていたのはほんの短い間だと、手に触れた敷布にまだいくばくか残っている熱が伝えている。
そう思っても、胸の平静に変わりはない。
侵しがたい・・・完全な・・・・。
オスカーはもう一度、彼女を見た。
アディールもオスカーの微動を敏感に感じとって、こちらを向いた。何も言わずに立ち上がる。夜着の長い裾がふわりと舞ったのが見えた。彼女はそっと寝台のへりに腰を下ろして、彼にそっと口づける。夢幻のような映像と、リアルな感触。予想外のその口づけに、思わず少年のように上気した頬に、アディールは気付かなかった。
二人は無言のままに理解していた。その口づけは始まりではなく終わりの・・・いや、終わりの始まりの、合図だった。彼女は呟いた。
「今の唇のように、二人出逢えたらよかったのかしら」
息をするごとく当然に。まばたきのように自然に。
「どう出逢っても同じだ。おそらく、な」
オスカーは彼女の細い肩をそっと抱きしめ、銀の髪の中に顔を埋めた。
「ずっとこうしていたい、心底そう思う。だが、こうしているしか、この想いは保てない。少しでも動かそうとしたら壊れる。この部屋に明かりをつけただけでも、壊れてしまう。別のものに姿を変えてしまう」
アディールはされるがままになってじっと彼の声を聞いている。青い夜、月明かりがにじんでいる部屋。
「・・・それが、あなたの見つけた『答』ですか」
「・・いや・・問いはそのまま、まだ俺の胸の中にある」
無理を押し切って聖地を出たときのまま、何も変わらず今もある。同じものを抱えつつ、自分は今かつて感じたことがないほどの平静さでいる。まるでしばし眠っていた間に数百年もの時が経ったかのように、あれほどの心のざわめきなどとうに忘れてしまっている。
「あれほど躍起になって、狂うほどに欲した『答』だったはずなのにな」
彼は笑った。
「今はそんなもの、少しも必要じゃない。自分でも不思議だ」
「答など無いというのが答だったということ・・・ですか」
そうではない。すぐに浮かんだ否定の理由を探す。彼はしばし黙ってから言った。
「・・・強いて言うなら、この問いは問いのまま、そのままにしておけというのが答なのかもしれない」
「そのまま・・・氷づけにでもするように?」
「上手い例えだ」
彼は顔を上げて月を見た。鋭く痩せ細っているくせにやけに明るいその光で、遥か遠いこの部屋を薄く照らす。どことはなしにアディールに似ていると思った。その彼女の声が静かに響く。
「たったさっき、ひとり思い浮かべていたのです、そのようなことを。私を長く翻弄していたあの炎が、炎の姿をしたままに氷の中に閉じこめられている・・・不可思議な像。消えるでもなく冷えるでもなく、赤く燃え盛ったままその形で」
「美しい想像だな、俺には思いつかない」
「幻想的で美しくて・・・・本当に、自分の想いをそんなふうにできたらと思いました。でも・・いつ氷は溶け出して、また炎が暴れ出すともわからないという不安もあった」
「ああ、それで・・・」
さっきアディールは自分に口づけたのだ。再び触れてどうなるか、試したのだ。彼は無意識に自分の唇を指でなぞった。
「ええ、それでも氷は溶けませんでしたわ。もう二度と私には、激情に晒され言い知れぬ不安に震える夜は来ない」
「俺を思って焦がれる胸の痛みに苦しむことはない」
「ええ」
「そうはっきり言うな。俺としては少々残念だ」
二人は笑い合う。
「仕方ありませんわ・・ああ・・でも・・・決して不安を恐れてそう思うのではないのです。いつ消えるともしれない恋の炎の刹那とひきかえに、その美しい結晶を眺め続ける永遠を取るのでは・・・・」
「わかっているさ。・・・俺には、わかる」
息をするごとく当然に。まばたきのように自然に。あの、口づけのように。
「氷づけ、なんだ・・・本当に」
消えるでもなく、滅びるでもなく。色鮮やかなまま、それは封印される。永久に。二人ともその封印が解かれることを望まない。
「美しい結晶にしておいて、それを眺めることもしない・・・。なら、どうしようというのでしょうね、私は。まったく矛盾していますわ・・・。でも・・・、それがあなたが会ってみたいと言った、私なんだわ」
「はは、そうだな。大体、氷づけの炎、なんてはなから矛盾もいいところだ」
「まあ、さきほどは良い例えだと褒めてくださったのに」
「矛盾してる、か?」
思わず吹き出す。二人の心は出逢って初めて同じ穏やかさを、同じ時間を今共有している。
「人には偉そうにそんなことを言っておきながら、俺自身、その矛盾を真に理解したのは今だ。口にした時はまだ、理屈の域を出ていなかった」
表裏一体。すべては矛盾しつづける。この言葉に納得がいかぬと膨れっ面をした少女の気持ちと、ずっと感じていた自分の苛立ちは同じだ。
感情にはすべて理由がなくてはならない。問いには答がなければならない。今までの自分には不可解をそのままにしておくなどできなかった。白黒をはっきりさせなければ気が済まなかった。それに変わりはないのだが、すぐさますべてが理路整然と答を導くわけではないことを、彼は知った。
悪戯に触れてはいけないものもあるのです、オスカー。
触れていけないものはない、触れずに、おかれるべきものが、あるんだ。
あの時は言い返せなかったことが、今なら言える。
自分の腕の中にあるものを、何より強く愛している。その手をゆるめることなく、誰にも手渡さず、ずっと抱え込んでいたい。きっと以前の自分であったなら、守護聖の立場など捨て、石もて追われてもこの愛を貫くと女王陛下の御前であっても宣言したろう。宇宙が滅びようが知ったことではない。共にいたいと思う気持ちに嘘はつけないのだから。なのに今の自分は、アディールと一緒でそれほどの激情を氷づけにできる。
共にいたいと切望しながら、共にいること以上の選択が別にあるという大いなる矛盾。そんなことを思う日が来るとは思わなかった。
俺はこれから忘れよう、この問いを。この愛を。そのまま捨て置こう。
きっと時間がかかるだろう。
この感情の結末はどこにある?
何の解決をみないままの問いは繰り返し俺に謎をかけるだろう。生々しく蘇り自分を苛む夜もあるかもしれない。しかし俺はその問いかけを無視する。何でもいい、適当な理由を付けてでも。答の出ない苦しみから解放されたいと願う自分を、無視し続ける。いつか完全に忘れ去るまで。謎があったことさえ忘れたその日こそ、謎が解けるときなのかもしれない。
氷に閉じこめられた炎の結晶は、降り積もる見えないほどの塵が為す幾重にも重なった層の狭間に埋もれていく。気の遠くなるような年月に、ゆっくりと地中奥深く、手の届かぬ場所に沈んでいく。忘れ去られる。忘れ去られてなお在り続ける、そんな化石がこの宇宙にはそこかしこに埋もれている。たとえ後に掘り起こされようと、その時にはそれが本当に意味するところなど誰一人として知るものはいない。
「夜が明けます・・・お支度をなさって」
「そうだな」
そう言いつつもオスカーは動かずいた。まだもう少しこのままで。この感触を出来うる限り自分の身に焼き付けて。それから。
「・・・俺が君を完全に忘れた時、君が完全に俺を忘れた時・・・その時また、逢いにくる」
「忘れてしまったら、逢っても互いはわかりませんわ」
「だから・・・いいんだ。・・・だが」
それではあんまり寂しいか?
彼は身を離し、彼女の瞳を見つめた。
「その緑だけ憶えておこうか。どこか心の片隅に。何の色だったかは忘れても、同じ緑を見たら音のない細波が胸に起こるように。しかし俺は気付かない、その細波に。・・そんなのが、いい」
「では私はその瞳の碧を・・・。この世でたったひとつの色を憶えておきましょう。そしてそれ以外のすべてを忘れますわ」
彼は最後にもう一度、手のひらを敷布の上に滑らせた。もうすぐ跡形もなく消えてしまう夢の、名残のかけらをかき集めるような仕草だった。
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