小説『薔薇色の日々』              03

「じーさん!馬場のならしは終わったぜ?そっち手伝ってやろうか?」
 離れた場所から大声で、オスカーは言った。ヨハンもまた大声を返す。
「オスカー、相変わらず仕事が早いな!しかし及ばんよ、あんまり爺を甘やかすな。いいから少し休んでろー!!」
 空は澄んでどこまでも青い。囲いの木柵に身体を預けて、シャツの胸ポケットから煙草を取りだし火をつけた。青一色の背景に雲の代わりに白煙を吐く。気分がいい、素直にそう思う。すっかり仕事にも慣れたオスカーであった。
 ふと頭に過ぎる声。馬の世話にばっかり慣れてどうすんのよ。
「・・・まったくな」
 今夜はまた会合の予定だ。何も報告すべき事は無かった。あの夜以降、オスカーが得た新たな情報など知れたものだ。アンリについてのいくつかのこと。
 使用人の間で「若様」の人望は一様に厚く誰一人として彼を悪く言う者はいない。若くして領地の管理を何一つ問題なくこなし、かつてらいなく下の者にも接し、穏やかで優しく心配りも細やかな・・・。
「おまけに顔も良いと来ちゃ、レディの人気も上々だ・・・なんだか腹が立つぜ」
 つい口をついてでる、単なるやっかみであった。何故にオスカーが馬の世話に熱心になるかと言えば、このこともあるのだ。城には女中として若い娘達もいる。いつもだったら心浮き立つこの環境、今回ばかりは揺るぎ無いアンリ人気に、オスカーでさえ太刀打ちできなかった。
「なあにぶつくさ言ってんだ?ん?」
 気付くと側にヨハンがいる。老人はおもむろにオスカーの手から煙草を取り、横に並んで火をつけた。いつものことなので取り立てて断りもない。
 オスカーはぶっきらぼうに老人の問いに答えた。
「別に、なんでもない」
「ごまかすな、聞こえたぞ?アンリ様の事だろう。おまえさんが早くも女中に粉かけちゃ失敗続きだってのは噂に聞いとる」
 老人の豪快な笑いがあたりにこだまする。
「ま、仕方ないなあ。アンリ様にゃあちょっとやそっとじゃかなわない」
 こんな老人にまで言われていては世話はない。しかしこの程度で腹を立てているのも煙草を無駄に短くするだけだった。オスカーは問いかけた。
「若様には決まった相手はいないのか?」
「ああ、わしもそれだけが気がかりでなぁ、おいそれと冥土にも行けんよ。この領地を実質任されているということもある、そんな時間も無いんだろうが」
「それだけピンシャンしてて何が冥土だ。・・・それはいいとして。そうか、いないのか」
「なんでそんなことを聞く?いたら自分にもまだ機会があるってことかい」
「いや」
 オスカーは身体を起こし、背筋を大袈裟に伸ばした。
「女に興味無い男ってのがわからないだけさ」
 老人はまた大きく笑い声をあげた。
「じゃあ聞いてみるといい!!今日、馬場に来るとおっしゃってた」
 随分とまめまめしい。細かい男ってのも好きじゃないんだ、俺は。
 そう言いかけて言葉を呑んだ。明確な意志表示はしないほうがいい。目的達成まではそれが鉄則だ、何に足をすくわれるかわかりはしないのだから。
 不意にまた本来の目的を思い返す。
 探し出すべきものに一番遠いのはアンリだ。この地にとっては昔のこと、アンリなどたかだか二十年足らずしかこの場所にいない。いくら領地を任されているとはいえ、最終的な実権はまだ父親にある。線の細い人の好さそうな若者は、事務的能力には長けているのだろうが、それだけだ。・・・おそらく。
「じーさん」
「なんだ?」
 オスカーはさっき木柵でしっかりと消した後持て余していた吸いがらを、ヨハンの手にさりげなく落とす。
「俺は仕事に戻る。若様が来たら呼んでくれ」
 陽が少しだけ傾いて、遠くに見える二つの城がやけに眩しくオスカーの瞳に映った。


 むせるような甘い香りは、部屋に飾られた大きな花瓶の派手な花々から匂ってくるものではない。目の前の大きな人影が落ちつき無く動く度に、強弱をもって鼻腔を襲う。オリヴィエはまるで色が見えてくるような錯覚を引き起こすその香りと無言で闘っていた。
「ねえ・・・だから・・・ねえ?オリヴィエ??」
「あ?ああ、はいはい。ゴメンね、マーゴット、ちゃんと聞いてるよ」
「あの、疲れているなら言ってね、無理して私に付き合うことないのよ」
 見目に似合わない殊勝な台詞に、オリヴィエは穏やかな笑顔を返した。
「別に疲れちゃいないさ、お洒落の話は好きだしね。で、続き。そうだね、マーゴットには・・・そっちのオレンジの方が似合う。大きさもデザインもぴったり」
「そう?派手すぎやしないかしら」
 マーゴットは頭に乗せた帽子に手を添えながら、鏡の前で右に左にポーズを取った。その度に彼女の大きな身体が細波のように揺れる。派手を云々する前にダイエットの方がどう考えても必須だった。が、勿論そんなことは口にはしない。
「ちょっと派手かなって思うくらいが丁度良いんじゃない?そっちの青いのはやっぱり少し地味だよね」
「でもね、こないだ作ったドレスに似合うのよ、青い方。あつらえたみたいよ、きっと」
「だったら両方買えばいいさ」
 その言葉に部屋の隅に控える出入りの帽子屋が一瞬笑顔になったのが鏡の中に映り込んでいて、オリヴィエは思わず苦笑した。
「青いのも買って、そのドレスに合わせればいい。オレンジの帽子に似合うドレスが無いんなら、作ればいいさ。お洒落ってそうやって広げていくもんだよ」
「まあ、他人事と思って気軽く言うわね、オリヴィエ!」
 そう言いつつも、マーゴットは嬉しそうに顔をほころばせる。
「でも・・・そうね、新しいドレス・・・あなたにデザインからアドバイスしてもらうのもきっと素敵。・・・ねえ今何時なのかしら」
 即座に帽子屋が時刻を述べた。
「まだ間に合うわね。今から呼びましょう。・・・あ、あなた、こちら両方いただくわ。ありがとう、もう帰って結構よ!」
 散々迷っていたくせに、決断の行動は早かった。うやうやしく一礼を残して扉を出て行く帽子屋と入れ違いに、侍女頭のノエラが部屋に入ってきた。
「ああノエラ、丁度良いわ、仕立て屋を・・・」
 そこまで言いかけて、彼女はノエラがワゴンを押していることに気付いた。
「あ、いいわ。オリヴィエにお茶なのね。他の者にいいつけてくるわ、失礼、オリヴィエ」
 急ぎ足であっと言う間に部屋の外へ消える。思い立ったらじっとはしていられない性質のようだ。オリヴィエから見れば母親のような歳である筈なのに、そうしたところが、どこか幼い少女の印象を抱かせた。
 ノエラも同じ事を思っていたらしい。
「まったくああしたところは昔とちっともお変わりない」
「いいんじゃないの?気持ちが若いって事だし・・・」
 オリヴィエはそう言いながら入れたてのまだ熱い紅茶を口にして、その完璧な味にいつものように感嘆した。ノエラは頭を軽く下げてから、話題を続ける。
「夜会やパーティの予定も当分は無いのに・・・もうクローゼットもいっぱいです」
「マーゴットのドレスは場所取りそうだもんね」
 二人はくすくすと笑い合った。オリヴィエは、この聡明な侍女頭と会話するのが気に入っていた。
「そうは言いつつ、別に小言めいたことも言わないんだね、ノエラ」
「主人の喜ぶ顔を見るのが仕事でございますから」
 老いた侍女頭はにっこりと微笑んだ。
「一番の原因はやはりあなた様でしょうね、あの方に仕えて長いですが、あのように嬉しそうなマーゴット様はここ久しく」
「あ、そうなの?いつもああなのかと思ってたけど」
「オリヴィエ様のような来客はそうそうございませんよ、いくらなんでも」
「縁もゆかりも無いくせに、いきなり上がり込んで図々しい口聞く客?確かに、そんな輩、度々来たらたまんないねえ」
 高らかに響く笑い声。
「確かにおっしゃる通り」
 でも、と彼女は続けた。
「不思議と無礼と思わせない・・・希な品がございます。マーゴット様が殊更にあなた様を気にいる理由、私にもわかるような気が致しますよ」
「身に余る光栄、だね。甘い汁を吸おうと寄って来た愛人志願だとでも思われてるかと思った」
「まさか。マーゴット様を知る者なら、かような誤解は致しません」
「あはは、キツイこと言うねー!」
「いえ、悪い意味ではありません。たとえあなた様がそのようなお考えでも、魅力溢れる御方であっても・・・そうした状況にはならない、という意味です。確かに我が主人は派手やかな生活を好んでおりますが、そういった方面に道を誤ったことは一度もございませんから」
「ま、ね。・・・わかるよ、そんなカンジ」
 窓には強い西日が光っている。最後の残照、すぐそこまで夜が来ている合図でもある。再び耳にせわしない音が聞こえてきた。噂の主の足音だ。オリヴィエはこんな時間からまた新たに仕事を始めなければならなくなった仕立て屋に少しだけ同情してから、まあ自分も似たようなもんか、と心で呟いた。


 空の上は既にその色を濃紺に変え始めている。今いる部屋にも、そろそろ明かりが必要だった。あと半時も経てばあの豪華なマントルピースにも火を入れに、使用人がやってくる。夜に向けて、時計の針は迷いなく進む。
 リュミエールはキャンバスの向こうの人物にさとられないよう、小さくため息をついた。今夜。あの二人に言えることがない。自分のいるこの場所に、目的の物がある、もしくはその手がかりがある。それをおそらく目の前の人物は知っている。一番に期待されているのは自分のはずだった。
 本当に、ルヴァ様もご無理をおっしゃる。
 そもそも、間違っている。オリヴィエとオスカーはまだしも、自分がいわゆる諜報活動などに向いているわけがない。その上に、一番重要な箇所を任されるはめにもなり・・・。不安要素だけが累積して、何ひとつ結果は導き出さない。その状況は事前の想像以上にリュミエールの心を重くした。
 彼ははどうにものらない筆を止め、領主に話しかけた。
「・・・美しい、夕暮れですね」
「では今日はこのへんにしよう」
 この城の主、ガストンはそう言うやいなや立ち上がった。
「あ、別にそういった意味ではなく!」
「深く意味を持って言ったのではないことは、わかっている。どうせ続けたとてあと少しばかりだ。別に急ぐ絵ではない、そう根を詰めることもなかろう」
「お気遣いありがとうございます。もしお時間許すのなら・・・」
 リュミエールは立ち去ろうとするガストンに向かって、少し話をしないかと提案した。
「我と?そんなことを言われたのは久しぶりだな」
 少々自嘲気味に言う領主に、リュミエールは微笑んだ。
「私は不器用で・・・絵を描いている最中はどうにも口が重くなります。ですからいささか肖像画は苦手です、相手を退屈させてしまうので」
「なるほど。絵など描かかせたことがないから、こうしたものだと思っていたが。あまり得意でないことをさせて悪いな」
「いいえ、ですからあなた様に申し訳ない、という話ですから」
 ぶっきらぼうだがその言葉にはいつも気遣いがある。昔は気性も激しく力まかせにこの領地を広げていった男と聞いたが、今リュミエールの前にいる男と既にイメージは重ならない。
「話術が苦手なのであって、むしろ肖像画を描くことは好きなのです。筆を通した先の絵に、目だけでは見えないその人となりを見ることもあって・・・絵とは不思議なもの」
「ほう。では出来上がった暁にはそなたが我をどう見ているかとわかるわけだな」
「ええ隠そうとしても。職業的な肖像画家なら、そうしたことも控える点ではありますが」
「では、そなたはまったく肖像画家には向いていないということになるな」
「本当に」
 部屋に笑い声が響く。丁度、入ってきた使用人が、その様子を見て少々驚きの表情をした。
 領主は言った。
「芸術というものは作者がいかな観点でものを見るかという、そうしたところを楽しむものであるのだな。我は知らなかった」
「それも一つの楽しみ方、というだけです。本来は、己の内なる声を聞くためのもの」
「内なる声?」
「ええ。創る者も、それを見る者も。今自分は何を真に望んでいるのか、求めているのか。何に傷つき何によって癒されるか・・・答えはすべて自分の内にある、その声を聞くための方法のひとつに、芸術はあると私は思っています」
「・・・・・・・恐ろしいものだな」
「恐ろしい?」
「真の己の望みなど、知らぬほうが良いということもあろう」
 リュミエールは黙った。領主は続ける。
「そういえば・・・この城に従来あった美術品やら、我がそこかしこで略奪してきた戦利品、さして興味も無くひとまとめにして埃を被っておるな。そんな話を聞いてはなおさら見る気も起こらなくなるぞ」
 ・・・・この城に従来あった・・・・?
 リュミエールの心は静かに躍った。気取られぬように極力声を落ちつけて問う。
「ひとまとめ、とは・・・どこに」
「あの塔にすべて放り込んである。何がどれだけあるかすら我は知らんがな」
 領主の指さした先、窓の外の古びた大きな塔。空に突き刺さるようにそそり立つ。
「・・・あの塔に・・・」
 あの塔の中に。とうとう、やっとの思いで得た、それらしき情報。リュミエールは声が震えるのを押さえるのに必死であった。
「あ。あの、不躾ですが、中を見せていただくことは・・・お願いでございます」

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