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(3章) 彼の行動がもたらす凡人離れのエピソード。 |
あの日の事故による影響なのか、差別する大人たちへの反抗心なのか、または、単なる超過激パフォーマンスなのか………。
彼が残すエピソードは…………………………凄い。
●外出用ブーツを履いたまま和室の部屋ですごす男。
●YAKUZAの車と接触事故を起こし、勢いあまって、その相手の車を奪い逃げ去った男
●天神でプロモーションビデオを撮影中、突然、停車中のバスの後ろによじ登り、そのまま走り去って行った男
●LONDON旅行のために200万円を用意するが、前日パブにてドンチャン騒ぎとチップで使い果たし、
一夜で残金3,000円にした男
●そのとき、酔っ払ったYAKUZAと喧嘩になり、額に大怪我をおった男
●それでもLONDONへ旅立つが、通関で所持金3,000円だけ持ち、しかも額から血を垂れ流した不信な
男として強制送還された男
全て、真実。
随分昔の話だが、ライブコンサートの打ち合わせのために、その頃ヤマゼンが一人暮ししていた鳥飼のアパートへと出向いたことがあった。当時幼かった私は、ヤマゼンの部屋を訪問することは大きな冒険だった。「犯されてしまうのでは」と、今では笑ってしまうような心配をしながら3人の友人と一緒に玄関のベルを押したことを思い出す。すぐにヤマゼンは出てきて部屋の中へと招き入れてくれた。
そして私たちは言葉を失った。
そこには、洋服と楽器と食器と雑誌とビール瓶と靴と帽子とレコード…で、できた大きな山がそびえていたのだ。本当なのだ。しかも部屋の半分以上を占める大きな山だった。いや、部屋中が山だった。おかげで窓ガラスは隠れており、昼間だというのに薄暗い。おまけに山善はブーツのまま部屋の中を歩きまわり、「そのままでいいけん」と私たちに靴のまま入るようにと言った。
入れと言われても入る場所がなく、私たちは玄関に立ったまま、手短にライブ当日のスケジュールの打ち合わせを済ませ、早足でそのアパートから離れていった。
言うまでもなく、そのときの話で私たちは半年は盛り上がったものだ。
あとで一番の焦点となったのは、あの山の中に700ccのオートバイもあったと言う友人の発言だった。勿論、私たちはその言葉にうなずいた。
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こんな彼のユニークで過激な生き方は、彼の音楽面の才能とペアで知れ渡っていった。彼の才能が
広く知れ渡るほど、奇行の数も増えていく。当然、レコード会社もこの情報を入手する。つまり、
結論は先に出されていた。たとえ彼の才能を認めても、手を出すにはあまりにも危険だとしり込み
されてしまっていた。最初から、彼のデビューの路は閉ざされていたのだ。
しかし、彼の奇行イコール、手のつけられない人間だとして排斥されているとしたら…。
それは理不尽な話ではないのか?
すくなくとも彼は、音楽の世界は自由で差別のない世界だと感じてこの世界に飛び込んだのに。
彼の才能は、このままアンダーグランドで語り継がれていくだけの運命なのか。
あまりにも強烈な個性ゆえ、そればかりが取り沙汰され、彼本来の人間性は無視されがちだ。
彼の側にいると伝わってくる、誰よりも美しい彼の純粋な心、やさしさ、あたたかさ…。
彼がどんなに素敵な人間であるかということは、ビジネスの世界では二の次にされてしまうのか。
彼の友人たちはヤマゼンがハイになったときの数々の奇行を目のあたりにしているのに(直接的被害を受けるときもある)、誰もがヤマゼンを愛している。「あいつほど、心やさしい奴はいない」「歌もハートも最高」…だと皆が言うその言葉に偽りはない。
こんなエピソードがある。彼の奇行が絶好調を記録した1975年。みさかいなしに暴れるヤマゼン
が博多のあちこちに出没した。見かねた父親は、奇行の根源である(と、当時父は思っていた)音楽から
遠ざけるためにヤマゼンを四国の田舎に隔離した。両親の営む事業の跡継ぎの修行のために、
父の息のかかった会社に修行に出したのだ。さすがに、このときは親しい友達でさえ、隔離されたことを
聞いてホッとした。
しかし、博多の街は味気ない街になっていた。
そして博多の街が気の抜けた街になったとき、仲間たちはヤマゼンの存在感の大きさに改めて気付いた。
「ヤマゼンはいつ戻ってくるとかいなね」と皆がヤマゼンの帰りを心待ちにしていた。
1年が過ぎたころ、一人の友人がヤマゼンにハガキを出した。そこには『そろそろRock`n Roll
やろうぜ from 森山』とだけ書かれていた。
(※森山とは、当時アマチュアだったThe ModsのVo.)
森山の手紙を片手に、ヤマゼンは博多に戻ってきた。そして再び博多の街はRock`n Roll Cityに
ふさわしい活気が戻ってきた。