●制作期間約10年、B6サイズコミックスで12巻、「オールスター」の記録をなんなく更新して、全10話中最長の大作になった(この作品が最長でなかったら、PALM完結の見通しは暗い・・・)、PALM初の恋愛編。
約10日間の環境会議がバックグラウンドという設定のこの作品は、約一ケ月のカレンダー上に会議とその前後のスケジュールを配置し、日を追う形でストーリーが進められた。
作品の長さの秘密(?)は、何組か生まれたカップルのそれぞれのエピソードを追うため、単純にキャラの数だけ話が拡張したこと。単行本1巻で作品内時間約3日(連載1回で半日)が経過するという超スローなお茶の間ペース作品となった。
「愛」というとても個人的かつ感情的問題と、「環境問題」という世界的、社会・政治的問題を、セットで追求しようと試みたこの作品、なぜこのふたつがセットかというと、ありとあらゆる媒体の芸術作品はモチーフがなんであろうと「人間と現代」を描くことになり、セックスと政治は人間にとって、そして環境問題は特に現代の人間にとって、最も重要な要素だから・・・だと獸木は思います。
一昔前は、映画や小説などでセックスを描くことは過剰なほど避けられていた。そうでなくなった今は「昔の人はよくセックス抜きで人間を描けたものだ!」なんて言われている。
今日本では政治を描くことは過剰なほど避けられてるような気がするが、環境問題抜きで現代の人間を描くのは、(あるいはその問題を無視して現代に生きるのは)今となってはいくらなんでもやはり無理がある。
本編はまた、PALMが後半戦に入る前の最後の「お楽しみ作品」として、ストックされたギャグや楽しいエピソードを惜しげなく使い、ページや制作期間の制限一切なしに書かれた至福の一話でもある。
さりげないシーンに長いページを使ったり、ささやかな表情や動作、会話にコマを費やした、ストーリー全体の完成度よりキャラクターの生活感や日常感をより重視する手法で、リアリズムを引きだそうとした・・・というのはタテマエで、描くのに度胸と根性の要るPALM後半を前に、作者もキャラクターと共に楽しい10年を過ごさせてもらった。読む人とも、同じ楽しさを分かち合えたことを願っている。
/★★★★★
制作エピソード/
「愛」という言葉の入ったタイトルの物語や歌は、この世にとてもたくさんある。でもこの「愛でなく」のように反語的なのもはほとんどない。たぶん「愛がなんぼのもんじゃ!」と言ってるみたいで、人々が「なんですって!」とショックを受けてしまうからだと思うが、獸木だってもちろん「愛がなんじゃ!」と思っているわけではないし、「愛こそすべて!」と、ジョン・レノンとかに言われてしまうと、むしろ素直に「そうだよな!」と感激したりもする。
ではなぜ「愛でなく」なのか?
それは「愛」を謳った媒体を見聞きしたり、誰かに「愛してる」と言われたり、場合によっては自分が誰かを愛したりした(と思った)ときに、度々こんな疑問が頭をもたげたからだ。
「それはほんとに愛なのか?」
こんなにも「愛」が氾濫していると、言葉だけが独り歩きをして、その意味などもうわかったものではない。あなたの言う愛と、わたしの言う愛は、本当に同じものを指しているのですか?
そもそも愛とは何なのですか????
女が売春婦にならずに生きてゆくのは、とても難しいことだと思う。誰かを愛するとき、そこに少しでも何らかの打算があったとしたら、それで一巻の終わりなのだ。
作家や編集者が売春婦やポン引きにならずに生きてゆくのも、それはそれは難しい。
「愛」を箱詰めにして、大量生産のパッケージとして売り出したが最後、それで終わりなのだ。
この作品「愛でなく」は、女性をターゲットにしたいわゆるホモ漫画の専門誌が次々創刊され、商業的レベルにまでブームが拡大、定着した時代に書かれた。
別に目新しいことではない。組み合わせが同性であれ、異性であれ、過激なポルノであれ、ほのぼのした乙女チック路線であれ、「愛」をうたった特定のパターンの大量生産品は常に流出し続けてきたし、これからもし続けるだろう。
買い手がそれを喜び、売り手が利益を見込める限り、ギブ・アンド・テイクは成り立つ。
だがそれが、使い古された男女の恋愛描写であっても、独特の暗黙の了解とルールの元に描き出される女性向けホモ漫画であっても、ある特定の既成のパターンでのみ、ものごとを書いたり読んだりしたできなくなった場合は、作家は生涯の多くを無駄に費やすことになるだろうし、読者はいろいろな書物や映画に含まれる豊富なバリエーション、人生の中のいろいろな階調、さまざまなメッセージといったものの多くを読み取ることができなくなるだろう。
もし、これら既成のパターンでのみ、本当に書いたり読んだりされていると仮定すれば、「愛でなく」だけでなく、PALMに描かれたすべての恋愛や友情、その他もろもろの愛は全部偽物である。
薄っぺらな商業製品、一時的に快楽を引き起こし、消費者に妄想を与え中毒ににすることによって、売り手を肥え太らす麻薬でしかない。
愛とはなにか?それは解明されない謎であり、ひとりひとりが終生かけて答えを見いださねばならない真理なのだ。わたしらたかだか漫画家や、コピーライターや、ドラマのシナリオライターその他もろもろなんかに、そんな遠大な謎がそうそう解けるわけがない。
「愛」の商標に御用心!
同じくらい、もしかしたらそれ以上の孤独な環境を生きてきて、たとえばジェームス・ブライアンみたいに極端に孤独な状況下に置かれた人間が、たまたま側にいた素敵なシングルの女教師や、アフリカで純粋培養されたアンディのような生き生きとした魂や、いざとなると自分の命を投げ出して(それがフォアウッドのような相手でも!)人を助けられるような希な人徳を持ったカーターのようなボスとか、小さい身体で気高く生きようとするアンジェラのような少女に、強く心を魅かれ、いつもいっしょにいたいと感じ、幸福を願い、何かをしてやりたいと思うのは、ごく自然なことのようにわたしには思える。
こういった感情を、「愛」や、「恋愛」という言葉抜きに表現するのはむずかしい。しかし結局は「愛」や、「恋愛」と言う言葉で表現しきれるものでもない。
また誰かと誰かがくっついたとか、離れたとか、結婚したとかしないとか、好きと言ったとか言わなかったとか、そういう話ともまた全然違うわけだ。
深いきずなや、時を積み重ねてつちかった関係も、いつかは失われる。そのとき、彼は、わたしは、こう思うしかないだろう。
「どうか忘れないで」
「愛でなく」という、反語的な、不可解なタイトルはこうして生まれた。
愛は誰にとっても唯一のもの。純粋で、完全で、美しく、自分のすべてを捧げる値打ちのあるものだ。
そうでないものは、決して愛などではない。
もし愛という言葉が、使い古されて別のものを指すようになったのなら、そんな言葉は捨ててしまってもいい。
最後に、作品の最後に英語のエピグラムを挿入させていただいたカート・ヴォネガットの引用でこのテキストをしめくくりたいと思う。
なぜ日本語のエピグラムにしなかったかというと、カート先生の引用はすでにエピグラムにしすぎているからだが、とにかくそれもあのお方が人生の各方面の究極の真理に精通している証拠だろう。
<カート・ヴォネガット・著/朝倉久志・訳/早川書房刊「スラップスティック」より>
Fev.21th.2001
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